灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

元気が出ない

ここ最近、全然元気が出ない。

 

正確に言うと、体力がもたないか、意欲が全く湧いてこないか、その両方。

 

9月に入ってからメンタルを持ち崩し、持ち直したと思ったところで風邪をひき、ワクチン2回目の副反応でがっつりダウンしたりしているうちに、なんだか根こそぎ気力を使い果たしてしまった感じがある。

 

週に元気な日が5日あったのが4日になり、3日になり、今は1日か2日あればいい方になってしまった。あとの日はというと、午後まで寝ているのはいい方で、ひどいと夕方子供を保育園に迎えに行く直前まで起き上がれなかったりする。

 

家事もほとんどできなくなってしまった。料理や掃除を積極的にやってたのが遠い昔のようだ。前より悪化してるんじゃないか?と思うとすごく焦る。

 

とにかく、昼間はどれだけ寝ても眠い。身体が重くて起き上がれない。寝ているとほっとする。睡眠欲以外の欲がほとんどなくなってしまった。夜は夜で昼寝まくっているのでなかなか寝付けない。どれだけ寝ても朝から眠くてしんどい。

 

ずっと旺盛だった食欲もなくなって、さっき測ったら少し前から5kg近く痩せていた。あんまり食べてないから当然なのだが、ほとんど運動もしてないのにみるみる軽くなる。

 

それでも元気なときは本を読んだりしてたのだけど、ちょっと最近はそれも無理な感じが続いている。カフェに出かけて読むのがいつものパターンだったんだけど、その元気がない。明日は出かけようかなどと思ってたら朝から大雨だったりする。うつになってから、気圧のダメージも顕著に感じるようになった。

 

多分色々あって体力を使い果たしたからぐったりしているだけで、また波が終われば元気になるとは思うんだけど、今はだいぶしんどい。

 

こういうときは、せめて人と喋りたいなと思う。寂しい。

 

気分が重くて、楽しいことが思い浮かばなくて、いずれ良くなるとは分かっていても、どうにもつらい。

 

ずっと疲れている気がする。休んでも休んでも元気が出ないのが情けない。休んだ気がしない。

 

しんどい。気力と体力が空っぽだ。

三銃士がどうしようもない奴らだった話(A・デュマ「ダルタニャン物語」第一部感想)

信頼するフォロワーが狂ってたのが気になって、町中探し回って「ダルタニャン物語」(アレクサンドル・デュマ著 鈴木力衛訳)を読み始めた。以下、本作についての若干のネタバレを含みます。

 

本編は11巻にも渡る大作で、そのうち1〜2巻がかの有名な「三銃士」にあたる部分だ。このパートについては、ご存知の通り書籍化される機会も多く、子供向けの名作枠のような感じでアレンジもされている。一方で、それ以降の第二部〜第三部にあたる9巻分については、今日では第一部と比べて極端に脚光を浴びる機会が少ないという状況だ。ただし、物語の真髄は第二部第三部にあるので、是非とも読むならそこまで…という具合で、オススメを兼ねてフォロワーから少しだけ情報をもらっていた。

 

折しも自分の側には、かねてから抱えている海外文学アレルギー、特に古典的名作といわれるものへの食わず嫌いを、いい加減にどうにかしないとなという問題意識があった。厳密に言って本シリーズがこのカテゴライズにあたるかは分からないが、それは置いておこう。そういうわけで、先日舞台「もののふシリーズ」が幕末ものへの興味を駆り立て、「幼年期の終わり」が古典SFの世界への扉を開いてくれたように、本作が未知のジャンルへの取っ掛かり第一歩となればという思いもあり、この度手に取ったわけである。

 

で、一巻「友を選ばば三銃士」二巻「妖婦ミレディーの秘密」と、第一部完結まで読みきったわけなのであるが……

 

あの、どいつもこいつも、アクが強すぎませんか……?

 

具体的には、主人公のダルタニャンとその親友である三銃士。こいつらがまあ、よく言えばぶっ飛んでいて個性的、破天荒。悪く言えば……相当な(愛すべき、と付けておこう)クソ野郎ばっかりなのだ。

 

俺、三銃士ってもっとカタい作品だと思ってたよ。誇り高い銃士たちの話だと思ってたよ。すごい敷居高いイメージだったんだけど。そんな不安と先入観は、第一巻で早々に雲散霧消してしまった。とにかく、主役たちのかますクズムーブ・畜生ムーブのキレが半端じゃないのだ。

 

ここで誤解のないようにお話ししておくが、作品自体は19世紀半ばに書かれたものであり、また舞台は17世紀前半頃だ。だから、現代日本の倫理観に照らして人権意識が……などとは極力言わないつもりである。だが、それにしても、それにしてもなのだ。それにしても、ちょっと度肝を抜くようなクソムーブが次から次へと展開されるのである。これが当時(の物語)としては当然のものなのか、また作品のトーンとして意識しているのか、それとも作者デュマの性格が表れたものなのは、未だ自分には判断がついていない。

 

あらすじを書くと無駄に長くなってしまうので本編第一部について簡単に書くと、田舎から立身出世を志してパリへやってきた青年ダルタニャンが、3人の銃士アトス・ポルトス・アラミスと出会って友情を深め、恋をし、そして陰謀に立ち向かう……という感じになるだろう。いやいや、それならどこにそんなにこき下ろす要素があるのか、とお思いの貴方。前書きが長くなったが、ここから主役たちのキャラクター紹介と共にその一端をご説明申し上げよう。

 

ダルタニャン:本シリーズの主人公。第一部時点で20歳。実戦経験がなかったにも関わらず剣の腕前は達人級。主人公であり、地の文で度々その美貌、勇気、気位、知恵などを称賛される……のだが、しばしば繰り出すそのクソムーブもまた規格外の主人公級。「きかんしゃトーマス」のトーマスがクソ野郎なのと同じ感じだ。ある意味では最も本作のスタイルを体現している。とにかく頭に血が上りやすく、恋にのぼせ上がったり、ブチ切れてすぐ走り出したら剣を抜くような印象があるが、その真髄は敵と定めたものに対するあんまりな残忍さにある。イギリスへの通行証欲しさからその辺にいた奴に因縁を付けて決闘を吹っかけたりなどは序の口(なんとそいつは黒幕の腹心でした!ラッキーエンカウント!)。命を狙われたりした復讐のためとはいえ、女のところへ暗闇に乗じて現れ恋人のフリをして現れいちゃついたと思えば、その翌日には恋人の手紙を偽造して別れを告げブチ切れさせ、そうして弱らせた心の隙間に入り込もうと接近して夜通し抱きまくるという、世にもおぞましい陰湿トリプルムーブを決めている。しかも相手は絶世の美女のため、その容姿自体にはぞっこん惚れ込んでるというクソデカ下心も混じってるわ、そのために自分に惚れてる召使いの女の子を利用した挙句ポイするわと、まあ控えめに言って高潔さの欠片もない奴である。一応本筋としてのポイントは彼の初恋にあるのだが、とにかく性欲と征服欲と復讐心のブレンドされたド畜生ムーブの印象が強すぎて、もうどうしようもない。

 

ポルトス:三銃士の一人。本来であれば「アトス、ポルトス、アラミス」の順番で紹介したいところなのだが、訳あって前後させるのをお許しいただきたい。三銃士の中でも一番身長が高く、ファッションに気を遣っている美男子。こいつを一言で表すならば愛すべき軽薄チャラ男系クズ。メンバーの中でも一番のお調子者であり、作者公認の見栄っ張り。どうもオチ担当感がある。しかも強者揃いの仲間内にあって妙に本編での敗戦が目立ち、モブに酒場で喧嘩を売られたと思ったらまさかの完敗を喫し大怪我をした。その上、療養中は宿代医療費を踏み倒して従者に盗ませた酒をかっくらい、訪ねてきたダルタニャンには「俺が圧勝したんだけど足をひねっちゃった」などとほざく始末。また極めつけには、倍も年齢の離れている夫人をメロメロにして金を無心しまくり、その家の金庫を執拗に狙い、挙げ句の果てに老主人が死んだらその遺産欲しさに夫人と結婚してしまった。ここまで徹底しているともはや清々しい。ちなみに金の扱いについては四人ともてんでダメで、稼いでは豪遊して使いきり、食うに困って女に工面させるみたいな話が繰り返されるのだが、どうも当時の貴族はみんな似たようなものだったらしい。すごい時代だ。

 

アラミス:三銃士最年少。聖職者を志しており、銃士をいつかやめると言っている。ダルタニャンを含めた四人の中では消去法で最もまともな男。要領がよく、機転が利くタイプで、他の連中のようなドカス要素はなく、恋はしてもメチャクチャな蛮行には及ばない。聖職者になるために論文書こうとしてたらラブレターが届いてフゥー!人生最高!神学問答も精進料理もクソ!終わり終わり!肉と酒持ってこい!になってしまったという回があったりするが、他と比べたら可愛らしいくらいだ。多分読者女性人気ナンバーワンだと思う。

 

アトス:三銃士最年長。質実剛健で他の三人と違い女っ気がなく、寡黙ながら貴族としての威厳と気品に溢れる。年長者らしく思慮深く慎重で、他の三人もアトスには敵わないといった様子。……というキャラクターでブレずに進んでいたのだが、一巻終盤で突如として覚醒。従者と共に宿屋の酒蔵に武装して何日も立てこもり、貯蔵してある酒と食糧のほとんどを食らい尽くすというぶっ壊れっぷりを披露。迎えに来たダルタニャンもその狂宴に誘い大いに楽しむが、挙げ句の果てにはその翌朝6時から賭けに行き、連敗して彼のために持ってきてくれた馬やら鞍やらを根こそぎ持っていかれるというナチュラルボーン狂人ムーブをぶちかました。このくだりをアトスがあまりにも冷静に語る場面は読者としての理解を超えており、しばらく何を読んでいるか分からなくなるほどだった。ヤケクソなのだろうか、それとも二重人格なのか。ほぼ一巻丸ごとを前振りとした超弩級のクソムーブは必見である。そのくせ二巻ではまた威厳貴族スタイルに戻るのでマジで手に負えない。どんなに格好付けても籠城泥酔破産コンボの汚点は消えることはないぞ。

 

ミレディー:第一部における最大の敵。主人公格ではないが、とにかく印象的なのでここに挙げる。絶世の美女にして根っからの悪女。その美貌と知謀を武器に策略を巡らせ、ダルタニャン達と対決することになる。もう二巻はタイトルからして「妖婦ミレディーの秘密」、中身もほとんどがめくるめくミレディー劇場で、主人公誰だっけ?となるほど。デュマも間違いなく楽しんで書いてるなというのが伝わってくる。名前、身分、国籍、更には信仰までをも偽って男を誘惑する生き様は天晴れの一言。特に、囚われの身となってからの脱出劇には凄まじい文章量が割かれており、これでもかというくらいに熱がこもりまくっている。ダルタニャンと宿敵が三度剣を交えた末に親友となるくだりは数行しかないのに……。それでいて、内心の描写や知略を巡らせる様子などが事細かに書かれているため、悪役ながら読者も身が入ってしまい、ついには応援すらしたくなってしまう。ほぼ一人で三銃士+αを相手に立ち回った女傑であり、間違いなく第一部のMVPと言える大女優だ。

 

他にもトレヴィル殿、枢機官リシュリューなど数々の印象的な登場人物がいるが、今回の記事ではメインキャストと呼べる四人を挙げるに留めた。

 

で、クソ野郎だの畜生ムーブだの散々言ってるけど、話全体としてはどうなの?ということであるが、これはもう「突っ込みどころ満載ながらついつい読んでしまう」という感想に尽きる。これもまた、間違いなく一種の面白さだろう。堂々たる英雄譚、痛快な大冒険活劇を期待して読むと面食らうだろうが、肩の力を抜いて「おかしいだろ!」「ひっでえ!」と笑いながら読むにはピッタリ、という感じだ。登場人物はみな人間くさく、ダメなところも目立つが、どこか憎めない愛嬌があって、目が離せない連中ばかり。そんな娯楽ドラマが三銃士だ。

 

ただ、ここまで書いてきた通りとにかくアクが強い作品なので、これ世界名作こども文学みたいな扱いでいいの!?とはめちゃくちゃ思った。このイカれ野郎どもを果たしてどう脱臭するのだろうか?おそらく勇敢な銃士たちの友情と勧善懲悪を軸にするのだろうが、それは言うなればノンアルコールのウイスキーを作るような所業だと思う。もし児童文学としての三銃士に触れたフォロワーがいたら、是非そのときの印象をご教示いただきたい。

 

ちなみに現在は、第二部「二十年後」を読み始めたばかりだ。ダルタニャンは40歳、かつての仲間とはバラバラになり、フランスには暗雲が立ち込めている様子で、どうも第一部とはガラッとトーンが変わる模様である。果たしてあのどうしようもない連中は、二十年経ってどうなってしまったのか。まずはそれを楽しみに読み進めたいと思う。

アウトプット偏重人生を振り返って

学生時代に打ち込んだことは、コミュニケーションです。

 

と書くと、控えめに言っても相当ダメな学生の就職面接自己PRのようだ。

 

また、一昔前には、

 

学生時代に打ち込んだものはキーボードです。

 

というのも流行っていた。今はスマホ全盛になって久しいので、もう廃れていると思うが。

 

何の話だよという感じであるが、このところ自分の過去、これまでの人生を振り返ることが多く、その中で結局俺にはこれしかないのではないかと行き当たったのが、こんなところであった。

 

また一方で、最近とても嬉しいことにフォロワーの何人かから「言語化能力が高い」というお褒めの言葉をいただき、自分にとっては最上級の賛辞として踊りながら喜んだのであるが、あらためた考えたとき、そもそも自分の言語化能力のルーツは何なのだろうということに疑問を持った。別の言い方をするならば、自分の言語化能力が比較的高いと仮定したときに、その訓練を自分はどこで積んできたのかを明らかにしたい、ということだ。

 

この二点、これまでの人生と言語化能力について思索を続けるうちに、何となく自分の中で納得のいく形に結びついた気がするので、今日はそれについて思いつくままに書いていきたい。長くなりそうだ。

 

まず、もうこれ以上フォロワーに向けて格好付けることもないと思うので端的に言うと、自分はもともと運動神経が悪かった。身体は比較的大きくてとても健康だったのだが、とにかく基本的に体育がダメだったし、足も遅かった。そのせいか、基本的に球技をはじめとしたスポーツというものに(やる方も観る方も)興味がなく、また体育会系的価値観にもアレルギーを強めていった。いわゆる典型的な運動音痴かつ体育嫌いなやつの出来上がりである。特に競い合う系とかチームスポーツがてんでダメだったのだが、例外としてプールや海で泳ぐのとかは好きだったし、今も好きだ。(下手なりに)

 

ちなみに、中学でハマって以来格闘技だけは別格だった。PRIDEの大晦日男祭りでヒョードルvsノゲイラを観たのがきっかけだったと思うが、そこから格闘技にハマり、格闘漫画や格闘・武道小説を読み漁り、K1からさらにはMMA(総合格闘技)に傾倒し、UFCWOWOWで堪能し、ボクシングもテレビ中継があればちょいちょい観た。就職して以来試合を見ることは減り、今ではUFCのランカーも世代交代でほとんど分からなくなってしまったが、それでも今なお格闘技は大好きだ。(ここから先しばらく脱線してK1の話を書いていたのだが、我に返って別記事へと隔離した)

 

ただ、その頃には既に極度の近眼だったこともあって、自分で格闘技を習うのは割と最初から諦めていた。大学の授業でボクシングとか合気道は取ったし、今思えばやりようもあったとは思うのだが。ちなみにすごく興味があったシステマは一度大学の近くに体験に行ったらめちゃくちゃキツくて音を上げてしまった。ごめんなさい。

 

いい加減に話を戻そう。というわけで、未だに体育会的な体質とか、年功序列とか、スポーツ全体主義・スポーツナショナリズム的なものとかはすごく苦手だし、共感できないことが多い。ボクシングの日本人チャンプやチャレンジャーの試合はめちゃくちゃ熱を入れて応援するけど、W杯の日本代表とかは試合も見ないし特に…というテンションだ。もちろん、職場とかでは話を合わせる必要があるが。

 

とにかく、こうしてスポーツがてんでダメだった自分は、当然ながら部活動で青春を燃やすような学生生活はしていなかった。中学は卓球部だったが幽霊部員だったし、高校は放送部だ。大学では登山サークルに入るのだが、これについては後述する。

 

では何をしていたかというと、インターネットキッズとしてPCとずっと向き合っていた。はっきり言ってしまうと小4くらいからゲーム系の掲示板をROM(注:見るだけで書き込まないこと)していたし、小5か6くらいで自分も参加するようになった。チャットにものめり込んだ。中学〜高校の頃はそれこそ巨大掲示板の端っこで日々を過ごしていたし、PS2のモンハンでもワイバーンを狩るよりチャットで喋っている時間の方が長かったと思う。

 

また脱線するが、当時のモンハンのチャットは本当にひどく、一文は短いわ変換はろくにされないわという有様だったが、そんな中でリオレウスが振り向くまでの間に文章を打ち込んだりしてたので、タイピングは病的に早くなった。また、MH2のオオナズチにはブレスでスタミナをゼロにすると同時にチャットをできなくするという技(P2以降効果削除)があり、誰かに灰色殺しだと言われたような記憶がある。

 

話を戻さないといけない。とにかく、家に帰ったら夜中までひたすらインターネットに潜る、お世辞にも爽やかとは言えない思春期を送っていたのだが、最近ではこの時期が功を奏して自分の今に繋がっているのではないか、と思うようになってきた。

 

まだオタクが被差別階級で、2ちゃんが犯罪者の巣窟だと思われていた時代、個人情報をオープンに出すのは基本的にタブー中のタブーだった。住所は論外、顔写真ももってのほか。年齢も好ましくないとされた。(特に未成年にとっては) このあたり、最近のネット事情は本当に変わったな…と思うことしきりだ。

 

そういう中だったので、自分はいつも必死に背伸びして書き込みをしていた。なるべく子供っぽく見えないように、思慮深そうに、冷静に、という感じだ。今思うとそれでもボロは出まくっていただろうし、かえって恥ずかしいことこの上ないのだが。ただ、大抵の場合はどこのコミュニティでも自分は最年少で、かつそれを明かさずに他のメンバーと張り合うように必死で話をしていたので、それが結果として自分の言語力を成長させたのではないかと考えている。

 

顔や身分などの属性が出ていなかったのも大きかったかもしれない。純粋に文章だけで面白いことを言わないといけないし、対面の表情や空気感のようなものもないので、必然的に書く言語に特化した歪な進化をしていったのだろう。Skype通話とかの文化が登場したのはもっとずっと後だ。

 

とにかく、何でもかんでも喋りまくった。話さずにはいられなかった。その欲求を全て画面の向こうに投げつけていた。どこのチャットでも、自分は一番口数が多かったと思う。(16年来の付き合いのモンハン友達と話すと未だにそうだ) 言い換えれば、ひたすら書き言葉のアウトプットを続けていた。何についてでも、ひたすら自分の意見や感想を話すようになった。好きなもの一つずつについて、ひたすら隅から隅まで喋るようになった。このあたりから、自分のアウトプット>>>インプット生活、アウトプット偏重人生がスタートした気がする。高校に入ると多少人間性を取り戻し、オフライン(リアルという言葉が好きじゃないのでこう書く)の友人関係も良好だったのだが、それでもネット大好き生活は留まることがなく、クソスレを巡回したり、毎週末はMH2のチャットでドラマを実況したりしていた。(途中からろくに狩りをしていなかったが、MH2の総プレイ時間は2000時間超えだった。俺と友人はそのときのことを振り返って「狩りができる有料チャットソフト」と呼ぶ)

 

まともな話をすると、高校時代は友人たちに自分なりの方法論を含めて受験勉強(主に英語)を教えたりもしていたので、これもかなり自分のためになったと思う。人に教えるには自分が十二分に理解した上で、要点を噛み砕いて相手に伝わる形で伝えなければいけないからだ。人に教えることは何より自分にとって貴重な機会なのだ。(だからといって、最近話題のアドバイスおじさんにならないようには本当に気をつけなければいけない)

 

ここまでの怒涛のインターネットキッズ自分語り古傷見せびらかしムーブで、相当ドン引きされているフォロワーも多いかと思う。というかここまで読んでくれている人がいるかもわからない。が、もう少しだけ続くんじゃよ。(亀仙人)

 

大学に入ると、さすがにキッズ時代からのネット熱も少しずつ冷めてきた。ちょうど巨大掲示板の全盛期が翳りを見せ、ニコニコ動画が隆盛を誇ったり、mixiのクローズドコミュニティが盛り上がったりしていた頃だったと思う。ここでは奇縁に恵まれ、登山サークルに入ることになった。

 

詳細は省くが、最終的に自分にとって登山が楽しかったのは、山で人と喋るのが楽しかったから、に集約されると思う。山行行程中、食事中、テントの中、下山後の温泉や打ち上げの居酒屋、とにかくたくさん人と喋る機会があり、それが何より楽しかった。当然のように、普通の酒席も控えめに言って大好きだった。縦走中、キツい登りや長い下りでも一秒たりとて黙らない自分はさぞ鬱陶しかったことだろうと今は反省している。ちょうど有吉の毒舌が流行っていた頃だったので、必然的におしゃべりクソ野郎(略しておしゃクソ)と呼ばれた。

 

一人で山に登るのもそれはそれで考え事ができたりして好きだったが、技術的に極めようとは思わなかった。せいぜいが夜行バスに乗って剱岳に登りに行ったくらいだ。雪山はやらなかったし、体力的にも登山部のようなガチの人々とは比べるべくもないエンジョイ勢だった。それでも妙に元気だけはあったので、食料と酒を満載した35kgのザックを背負って合戦尾根を登ったり、蛭ヶ岳を目指して塔ノ岳のバカ尾根を80分で登ったり、縦走中に真空パックしてきたローストビーフを幕場で食ったり、しばしば奇行は繰り返していたが、それは別の話だ。

 

とにかく、大学時代も詰まるところは「人と喋るのが楽しい」で構成されていた。お喋りをアウトプットと定義していいならば、本も大して読まなかった自分はこの時期も明らかにアウトプット偏重人間だった。ただし、大学では先輩・後輩ができたこともあり、人の話を聞く重要性を知り、少しずつでも軌道修正を試み始めたことは書いておきたい。それがないと本当にヤバい奴のままで終わってしまうと悟ったからでもある。

 

そのうち、Twitterを始めると、140字の世界に特化した生き物としてさらに特異な方向に進化が進んでいく。元々まとまった量の文章を書くよりも掲示板やチャットなどの短文に特化していたので、Twitterに放流された自分はまさに水を得た魚だった。言いたいことをギチギチに詰め込むのは大得意だし、息をするように連投もする。

 

ここまで、「中高のネットでも大学のサークルでもずっとお喋りだった」ということを伝えるのに凄まじい文字数を要してきたが、まとめるとそういうことだ。とにかく、常に誰かに・どこかに向けて喋りかけることができたので、なんでも思うことは言葉にするようになった。たとえ実際に発さなくても、脳内であらゆる思考を言語化する癖が自然と付いていったのだと思う。最近はこの言語プロセッサがオーバーヒートしたことで不具合を起こしているというわけだ。

 

大学を卒業し、就職して2年目以降は営業に配属され、次第にバックオフィス系の仕事からフロント対応に移っていった。そこでは製造業のルート営業(しかもかなり特殊な業界)という性質上、差別化された製品の特性をアピールして案件をゲット!ノルマ達成!というような仕事ではなく、ごく限られた相手と繰り返しコミュニケーションを取ったり、市場の現況について説明したり、情報収集したりして関係を維持したり深めていく、というのが主な役割だった。

 

仕事をするうち、詰まるところこの業務の大部分は言語コミュニケーションであり、また他人と差別化して相手から好印象を獲得するにも基本的にはその点しかない、ということに気付き始めた。一方で、上司や同僚を見渡しても素のキャラクター性以上のレベルで言語力を上達させようと努めている者は見当たらず、営業でありながらその重要性を認識してもいないように思えた。そもそも、話すこと、書くことについて、「礼儀正しく」だの「分かりやすく簡潔に」だのという以上の深さで理論立てて考えている人間がゼロに等しかった。これにはひどく衝撃を受けた。

 

このままではダメだと思った。幸い、どこまでがお世辞か分からないにしても、社内外を問わず話が分かりやすいとはよく言ってもらえる方だ。ならば、それをもっと伸ばさないといけない。加えて、かつて人に「言葉を磨け」と言われたのを思い出したこともあって(別エントリ「褒め上手になりたい」参照)、近年は特に、技術的・理論的に「喋ること」を磨きたいと思っている。理想的には、誰にでもある程度応用できる形にまとめたい。逆に言えば、外見も良くなく目立つ実績もなく具体的な技術にも乏しい文系崩れの自分には、それしかないのだ。言葉しかないのだ。

 

自分に誇れるような学生時代の成果は特になく、スポーツマンのような華々しい思い出とは無縁で、中高のネット生活と現在の自分とは繋がっていないように思っていた。だが、今改めて振り返ると、あの頃狂ったようにチャットや掲示板にのめり込み、ずっと年上の人間の相談に乗って一緒に悩んだり、仲良くなったり離れたりを繰り返した経験が、全て今の自分の土壌になっていたのだと感じる。そうして、今までの自分をトータルで肯定してやれるようになったのは、シンプルにすごく嬉しいことだ。突き詰めて突き詰めて考えたら、自分のルーツの結晶は「人と喋るのが好き」ということ、それだけで、それはどうやら20年以上変わらなかったようだ。

 

だから、自分の言葉で誰かを元気付けられたり、笑わせられたり、関心を持ってもらえたりするのが、何より幸せだ。相手の話を聞いて、それに適切な返しをできることが、すごく嬉しい。とんでもないボケに対して、ニューロンから即座にツッコミを繰り出すのが、最高の快感だ。伝わりそうで伝わらないギリギリの例え話をして上手くいくと、ガッツポーズをしたくなる。自分にとって「話が面白い」「言語化力が高い」と言ってもらえるのは、飾っているインターハイのトロフィーを褒められたり、「すごい筋肉ですね!何かされてるんですか?」と言われたりするのと同じだ。頑張っていること、ずっとやってきたことを褒められるから嬉しいのだ。

 

つくづくどこまで行っても子供じみているが、これが今までの自分の全てだ。

 

では、これからはどうしていくのか。自分自身では、そろそろ話のネタを使い回すにも限界があるのかな、と折に触れて感じている。面白くなるために、もっともっと、話の引き出しを増やさなくてはいけない。そのためには、アウトプット偏重だった人生を軌道修正して、インプットの量を増やしていかないといけない。興味範囲を広げて、知らなかったものに手を出して、本を読んで、人の話を聞こう。近頃はそう思っている。

 

だからフォロワーの皆様には、これからもたくさん面白いものを教えてほしいし、その感想を聞いてほしい。もしこの異常長文を最後まで読んでくれた人がいたら、そうお願いして、締めくくりたいと思う。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

理性の死んだ日

人生で初めて、思っていることを片っ端から深く考えずに書いた気がする。そのことで幻滅させてしまった人がいるかもしれないし、また多大な心配をおかけした方々には大変申し訳ない。

 

人間は頭の中で思考する時、自分の身につけた言葉を用いる。幸いにして自分は、それがスムーズなようで、何が言いたいか自分でも分からずにモヤモヤする、ということは最近はあまりない。全てが瞬時に頭の中で言語化される。

 

ただ、それを吐き出す先があるかというと別だ。大体は言葉になったところで、出ていかずに頭の中に染みつく。そうして、自分の中で言葉が滞留し腐敗して、自家中毒を起こしている。そうやって腐っていった言葉がどこに行くかというと、自分の中のブラックボックスのような、整理整頓が下手な人間の収納箱のような、悪い感情と悪い言葉をとりあえず突っ込んでおくスペースに入れられている。

 

この箱は自分の中の、理性的でない部分、理想的でない部分と直結している。あらゆる暴力性、衝動、欲望が沈澱したヘドロのような部分だ。昔から自分はパニック癖があり、短気で、予想外のことに弱く、すぐに激昂する。ちなみに、妻は「すぐにテンパる」と言って自分のこうした部分を毛嫌いしている。

 

自分の性質だと認めるのが嫌で、かなりの癇癪持ちだった父親から遺伝したのだと自分に言い訳をしている。そうならないように、仕事でもなんでも常に最悪のケースを予想して、二手三手先の展開まで考えて動くような癖がついたし、何でも即座に仮説を立てて考えるようにしている。土壇場に弱くメンタルがもたないのは分かっていたし、長時間集中力がもたないので、受験勉強も先行逃げ切りのような感じだった。

 

とにかく、自分の中にとてもおぞましい、醜い、凶暴な部分がある。Twitterのイメージや、明るくていい先輩として作り上げてきた表面とは真逆の、最悪の人間性だ。小学校の頃くらいからはもう、こいつが自分の中にいた気がする。中二病そのものみたいな言い方だが、本当に苦しんできた。もうずっと飼い慣らしてきたけれど、悪い酒の飲み方をしたときに顔を覗かせたり、精神が追い詰められると次第に接近してきた。

 

うつになって、こいつと自分が完全に一体化してしまった気がする。理性的な部分の自分が死んで失われた。今まで慎重に作ってきた足場が無くなったような気分だ。元よりそんなものはなかったのかもしれない。

 

Twitterで、自己顕示欲や性欲を剥き出しにしてけたたましく喚くアカウント、自慢話ばかりの連中が大嫌いだった。醜いと思った。だけどもしかしたら、羨ましいだけだったのかもしれない。人の目を気にしないで、何も我慢せずに好き放題に叫ぶのは、楽しくて快感だ。それが恐ろしい。こうして頭に浮かぶことを推敲もせず、自己批判もせずに垂れ流すのは、気持ちがいいのだ。

 

自分の理性的な部分は死んだのがわかる。今の自分は何なのだろうか。抑えつけていた卑屈で凶暴な部分が出てきて、トータルでは人に好かれるはずもない人格だということが、どんどん明らかになっていく。誰も彼もが離れていくだろうことが分かる。その後に残るものは何なのだろうか。

 

だけど一番恐ろしいのは、それを面白おかしく書けるかもしれないと思ってこの記事を書いている自分自身だ。何も我慢せずに文章を書いて放流するのは快感なのだ。醜い。

 

うつになって、自分が大事にしていたはずの建前の部分、理性的な部分が折れて死んでしまった。後に残っているのは醜い欲望のようなもの、暴力性の塊のような人間だ。そしてナルシストなのかマゾヒストなのか分からないこいつは、自己紹介を楽しんでいるようだ。自傷行為を面白がっている。最悪の生き物だ。

 

この自分が、この先まともにやっていける自信がない。不安だ。

 

辛うじて、うつになってからも仲良くしてくれた人達、気にかけてくれた人達の存在が自分の心をまともな形に繋ぎ止めている。その人たちは、過去の健康だった自分だけでなく、今のこうなった自分でも受け入れてくれている気がするからだ。その人たちに嫌われるのだけは怖い。

 

こんなことを長々と書いて、この先俺はどうするつもりなんだろうか。よく分からない。黙っておいた方が遥かに賢明だと思う。ただ、好き放題に書くのは楽しい。20年以上も我慢してきたことがいくらでも吹き出してくる。楽しい。それが怖い。何もかもを受け止めてくれる人なんて現実には存在しない。

 

もう大人で、家族もいる人間なんだから、最低限の分別を持たないといけない。そう分かっていても喚かずにいられない。今までの自分が遠くで死んで別人になってしまった。

 

懺悔室というのは、もしかしたらこういう人間のために必要だったのかもしれないと最近よく思う。

 

 

辛いので書く

言葉が頭の中を回って吐きそうなので書く。多分少ししたら消す。

 

つらい。しんどい。ずっと疲れている。

日に日に身体が動かない時間が長くなっていく。少し前まではもっと活動的になれたし、本も読めたのに、今は全くダメだ。外出する気力もない。自分は軽症のうちに休職して良かったと思ったけどそうでもないらしい。

 

ずっとあった食欲もない。測ったら3キロ以上痩せてた。それでも毎日何か食べてるから大丈夫だと思うけど、食べたいものがなくてつらい。あっても食べに行く気力がない。

 

料理もほとんどできなくなった。掃除も。料理をしても喜ばれたりしないし、ただしんどいだけで慣れた料理は味もワンパターンなので、作る気になれない。

 

眼鏡をかけているのがしんどい。目を開けているのがしんどい。1日の大半を寝て過ごして、夜は眠れない。スマホを見るのもつらい。

 

身体が思うように動かない。身体が動かないか、意欲がないか、その両方の状態が続いている。

 

消えたい。消えてなくなりたい気持ちが出てきてから、日に日に大きくなっているのを感じる。ダメだと思うほど大きくなる。死にたいとは思わないようにしてるけど、消えたい。楽になりたい。逃げ出したい。

 

それでも文章をまともに書こうとしているあたり、自分は卑怯な人間だなと思う。多分病気も本当は大したことはない。

 

もう五ヶ月も経つのに良くなるどころか後退している。波があるというけど、半月以上ほとんど調子が悪い。最悪期に近い。薬を飲んで仕事を休んでも悪いのだから最悪期より悪い。

一生このままじゃないかと感じる。終わりが見えなくなった。少し前までは治ったらしたいことを強く考えられたけど今はダメだ。

傷病手当をもらえる期間が過ぎても治らなかったらどうしよう。会社は辞めることになる。それが家族にとって一番良くない展開だと妻はわかっているんだろうか。そうは思えない。妻からしたら仕事してない分家事をやらせられてラッキーくらいの感覚なのだ。

 

家にいるだけで罪悪感がすごい。耳に入る声がつらい。子供と接するときは明るくニコニコしてないといけないので、無理をしている。祝日や予防接種などで子供が家にいる日が多い週はずっと無理をしている。まだブロックする前、

妻がTwitterで都合のいいときだけ出てきて偉そうにするなと書いているのを見た。俺はフラフラになりながら少しでも役に立とうと思っていたので、本当に辛かった。妻は友人がいないので、昔から愚痴をTwitterに書く。俺を悪し様にボロクソ書く。そのイメージが彼女の中で固定化されていくんだろうと思う。妻はいい思い出を語ることは少なく、子供の頃から今までの辛かったことや、俺が許せなかったことなどをいつも思い出して語る。思い出すたびに記憶が強くなっていくんだと思う。自分から楽しいことを探すことはしない。そうして自分でどんどん不幸になっていく人だった。この先もずっと妻と暮らすことを考えると、消えてしまいたくなる。失敗したのは自分が悪い。自分の責任だ。こうしてブログなんかに書いている自分はもっと卑怯者だ。

 

子供は可愛い。ただ、それに付き合いきれないのが申し訳ないと思う。機嫌が悪いのにもうんざりすることがある。うちの子供は未だに二時間以上続けて寝ない。それに合わせている妻には申し訳なく思う。育休中、そのあとも少しずつでも自分が夜勤に入るようにしていたが、今は無理だ。

 

身体が重い。笑顔を作れない。

 

人に会いたい。人と話したい。褒められたい。労われたい。好きだと言われたい。今の自分は無価値なので無理だとは分かっている。

 

しがらみとか、イメージとか、立場があるので、人と本音で話すことができない。妻と共通のフォロワーやリアルの知人が見ていると思うと気が気じゃない。でもブロックするのは申し訳ないのでしていない。

 

後輩は自分を必要としてくれていると思ったけど、そうではないのが去年わかった。複数人だ。彼らにとっては邪魔でこそあれど俺はいい存在ではなかった。俺は好きだったけど離れていってしまった。

 

高校や大学の友人先輩後輩には、申し訳なくて話ができない。そもそもイメージじゃないし、向こうもただ困るのがわかるので話せない。

 

自分のTwitterは飯の画像とハイローの話以外価値がないのかなと思う。LDH関係以外に興味がないフォロワーが何百人いるのかわからないけど、頼むからブロックしてほしい。

 

特定の思想に傾倒しているフォロワーのツイートを見るのがしんどいので、ミュートしている。はっきり言うと暴力化したツイッターフェミニズムのようなものだ。もちろん大義名分は正しいと思うし、差別を肯定するつもりは一切ない。最悪だなと思うニュースも多いし、その解消のために声を上げるのは大切だと思う。ただ、過度に攻撃的になったり、暴力的な手段に訴えて誰かを叩き潰すようなのには到底賛同できない。一部なのかもしれないが、明らかにおかしくなっていると思う。これを見て憤慨した方、失望した方は、是非ともお願いだから自分をブロックしてほしい。ずっと書きたくても書けなかったが、少しスッキリした。

 

子育ては実家にできるだけ頼ればいいという人がいる。自分もそう思う。ただ、うちは妻がそれを許さない。気を使うからという理由で、孫に会いたくてたまらないうちの両親を遠ざけている。コロナも都合がよかったのだろう。では母方はというと、義母がそもそも子供に接するのに問題があるようなワイルドな人物なので、到底お願いはできない。妻は仮に一日休みをもらって外出してもかえって疲れる、または子供のことをしてしまうというような人物なので、それもあるだろう。その分、自分も二人だけの子育てに付き合うことになり、疲弊した。産まれる前はそんなことはなく、できるだけ色んな人の手を借りて疲れないようにやっていこうと言っていたが、変わってしまった。はっきり言うとうつ病になったのはこの実家に頼む頼まない問題だった。自分は既に限界だったのだが、妻からすると私が嫌だから嫌、と泣き叫ばれ、この人は合理性とは無縁だしどれだけの負担が俺にかかっても関係ないのだな、これが一生続くんだなと思った瞬間に心が折れてしまった。だから今でも、うつになったのはお前のせいだという思いが離れなくて辛いし、一生抱えていく気がしている。

 

仕事はほとんど残業もしなかったし、異動してひと月でろくに仕事もしてなかったから、職場ではなんであいつが、と後ろ指を指されているだろう。もともと古い会社だ。戻ったところでろくに働けるとは思っていない。考えると憂鬱になるので考えないようにしている。それでも手当を少しでももらえるのはありがたい。

 

大したことをした記憶もないが、少なくとも自分と近い世代やそれ以降の若手の中では群を抜いてよくやっていたと思う。外国人と交渉をしたり、現地で通訳のようなこともしたし、上と下の折衝役になって、上に噛みつき、下の言いたいことを伝えたり、若手のまとめ役のようなことをさせられたり、定形外のトラブル対応や相談窓口のようなことを一手に引き受けていた。残業癖のある子の残業対策で相談に乗ったりもしたし、若い二人の精神的な負担を減らすために積極的にチャットで声をかけたりもした。技術系の顧客や工場の話も取り仕切った。少なくとも社外からは信頼されていたと思う。また一緒に仕事をしたいと言われたのは嬉しかった。今はこんなことになっているけど。

 

誰よりも結果を出しているつもりでいたけど、特に金に反映されることはなかった。ただ、このままいけば確実に昇進するから、と言われていた。何も嬉しくはなかった。どうせ年功序列でみんな管理職になるからだ。上を見ても能力で抜擢された人はおらず、みんな歳をとっただけで尊敬する人は一人もいなかった。嫌なやつだと自分でも思う。

 

うつで脱落したので、昇進が遅れた。誰よりも頑張った結果が脱落とは皮肉なものだ。おそらくこの差はずっと付き纏い、うつで昇進できなかった人というレッテルがついて回るので、長くはいられないだろうとは思う。ただ、転職経験もないので怖い。しがみついている方が楽だと思う。

 

ひたすら思うことを書いていたら少し楽になった。これをお蔵入りさせればいいと思うけど、卑怯な人間なのでTwitterに公開すると思う。構ってほしい。誰かに何かを言ってほしい。寂しい。孤独感がすごい。

 

自殺する人、倫理的に間違ったことをする人、離婚する人、別居する人、いろんな人の気持ちが最近はわかるようになった。死ぬ気になればなんでもできるというのは嘘だ。死ぬ以外何もできなくなるというのが正しい。筋トレしてうつが治るというのは嘘だ。

 

美味しいものを食べることもできないし、ゆっくり休むこともできないし、こんな奴にどうやって声をかけたらいいんだと自分でも思う。自分のフォロワーにいたら多分黙ってミュートしている。自分がどんどんろくでもない人間になっていく。毎日無意味で無価値な人間になっていく。それでも依存症だからTwitterはやめられない。

 

もうずっと部屋が散らかっている。片付ける気力がない。そもそも物を収納するスペースが足りない。

 

気圧のせいで体調が悪いのかとも思ったが、もう半月も続いているので多分違うと思う。少し前は雨の日でも楽しく外出していた。あの頃に戻りたい。

 

たくさん文字を書いたら少しずつ楽になってきた。半信半疑だったけど効果はありそうだ。でも誰かに見てほしいので公開する。フォロワーは減るだろうけど。

 

肯定されたい。自分より辛い人が世の中に溢れているのは分かっているので、完全に甘えなんだけど。

 

昨日ものすごく辛かったときに声をかけてくれたフォロワーがいて、本当にありがたいなと思った。側から見たらオオカミ少年みたいなものなのに、心配してくれて申し訳なく思う。助かっている。

 

いいねって何だろうと思う。好意的に解釈すれば見てるよ、ということだろうか。話したことある人は別として、そうでない人が苦しいツイートの時だけいいねしていくのは何だろうと思う。ひどいときにはブロックしたこともある。親しい人が見てくれるのは嬉しい。

 

子供を保育園に送りながら書いている。いい天気だ。頭が痛い。

 

どうでもいい人はどうでもいいけど、好きな人には嫌われたくないな。慕われてると思い込んでたけどそうじゃなかったとか、何となく話しづらくなって疎遠になるとか、人生そんなことばっかりだった気がする。

 

思っていることを全てではないにしろここまでたくさん言葉にしたのは生まれて初めてだ。自暴自棄になっている。自傷行為のようなものだろうか。

自分にまだこれだけのエネルギーが残っていたことに驚く。

 

多分少ししたら消す。

 

 

 

 

 

アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」が面白すぎて卒倒しかけた

タイトルの通りです。かすかにネタバレあります。

 

フォロワーから、お互いがハマっているゲームを含めて多くの作品のオマージュ元になっている作品なので是非読んだ方がいい、と言われたのをきっかけに、今日文庫を買いました。

 

もう、冒頭20ページから引き込まれました。あまりにも面白すぎて、そのまま半日で読み切って、放心状態のままこの記事を書いています。

 

あらすじや概要は省略しますが、簡単に言うと宇宙からの超高度知性と接触した人類がどうなっていくかを描いた話…ということになるのかな。

 

驚くべきことに、アメリカ本国で出版されたのが、1952年。なんとほぼ70年前です。にも関わらず、古臭さを感じないどころか、その独創性、先見性、豊かな描写は今読んでも全くもって色褪せないどころか、目が眩むほどの輝きを放っています。それでいて非常に読みやすく、ページをめくる手が止まらない止まらない。これについては訳者の手腕の素晴らしさもあろうかと思います。

 

特に、戦争や犯罪が撲滅され、物質的にほぼ完全な充足がなされた世界においては、娯楽が氾濫し一生かかっても見切れないほどのコンテンツが世に溢れる…というくだりには背筋が凍りました。平和という観点ではまだまだ及ぶべくはないものの、可処分時間を巡るコンテンツ供給過剰の現状を思い起こさずにはいられません。

 

また、新世代の芸術として、作中では「完全一体化」という言葉で表されていますが、拡張/仮想現実技術の登場をもクラークは予見しています。作中ではまだ完成を見ていないものの、その先見の明たるや。彼自身、時間を超越した未来からの像を受け取っていたのではと思うほどです。

 

読み始める前は、「古典的名作らしいし、折角だから読んでみるか」くらいの気持ちだったのですが、そんなことは関係なく、純粋にエンターテイメントとしての面白さがとんでもないです。感情移入というのとはまた少し違いますが、眼前に次々と現れる謎に対して登場人物と読者が同様に疑問、疑念を抱く作りになっているので没入感が凄まじく、また一方ではその端々に見える不穏な響きが徐々に音量を増してくるので、好奇心と恐れとでとにかく1ページでも先が気になります。これを面白いと言わずして何と言いましょうか。もう、取り憑かれたように最後まで読んでしまいました。物語の展開もテンポ良く、次々とこちらの想像を超える方向にストーリーが転がっていきます。それでいて、情景描写が実に丁寧で、終始脳内では映像を鮮明に描き出すことができました。そして、加速する物語の中で明らかにされるタイトルの意味。

 

もう、これほどの読書体験ができたのは、ただただ幸福であったとしか言いようがありません。哲学的な素養はないので、深い考察などはなかなかできないのですが、それでも非常に豊かな示唆に富んだ作品であることはハッキリと感じ取れました。おそらく、これから先読み返すたびに新たな発見があるのだと思います。

 

でもって、今は完全にSF小説というジャンルへの興味が自分の心を鷲掴みにしています。一応人並みの想像力と言語能力がありながら、なぜ30年以上もこの鉱脈にノータッチだったんだ、と過去の自分を責めたくもなりますが、それ以上にワクワクが止まりません。

 

月並みですが、古典的名作と言われるものには、やっぱりそれだけの理由があるなと強く感じました。しかも、そう呼ばれる作品だけでも世には数多くある上に、今も新しい作品が次々と生み出されています。これは大変だ。何から手をつけようか、めちゃくちゃに楽しみです。もしフォロワーの中にSF作品のオススメをお持ちの方がいらっしゃったら、是非お声がけください。よろしくお願いします。

 

 

愛と感謝は大声で

愛と感謝は、いつでもはっきりと伝えるようにしている。

 

というわけで、いきなりタイトルの通りなのだが、「好き」とか「ありがとう」は極力言葉にして相手に伝えることをいつも心掛けている。ブレまくる自分の数少ない信条と言ってもいい。特に酒を飲んでいた頃は、テンションが上がるとこればっかりになるので、後輩からありがとうおじさんなどと呼ばれていたが、今も絶賛ありがとうおじさん継続中である。

 

これには大きく分けて二つの理由がある。一つ目は、単純に自分が思ったことを口にしないと基本的に気が済まないタチだからだ。とはいえ、言葉は言霊なので、嫌悪や憎しみなどなどネガティブな感情は極力自分の中で消化して、文字にしたり口にしたりはしないように心掛けている。一方で好意や感謝については、後述の理由もあってなるべく我慢せず、言葉にするようにしている。この点まで我慢してしまうと、自分の中で感情が堂々巡りになって自家中毒を起こすということが、経験から分かっているからでもある。

 

二つ目は過去への反省・後悔からだ。オフラインの知り合いについてもそうだし、更には20年近くのインターネットキッズ人生もこれに関係している。思い出すだけでも、たくさんの人と仲良くなり、そして疎遠になったり離れたりしてきた。自分から離れた場合も多いけれど、そうでなかったケースもある。また、Twitterなどはアカウントを消してしまえばそこまでなので、仲がいいと思っていても垢消し以降全く連絡が取れなくなってしまった人も多い。

 

ふとした瞬間にどうしても考えてしまう。「あなたのこういうところが好きだ」「いつもありがとう」「ずっと仲良くしていたい」と、もしあの人に伝えられていたら、何かが変わったかもしれない、と。感傷とエゴが入り混じったワガママだとは自覚しているが、それでも考えずにはいられないのだ。「嫌いだ」と伝えずにそのまま別れるなら構わない。けれども、「好きだ」と伝えられないまま、もう話すことがなくなってしまったたくさんの人のことを思うと、どうしても悔やむ気持ちが出てきてしまう。

 

同じように、今の人間関係もふとしたきっかけで疎遠になり、失われてしまうかもしれないという、恐怖感に近いものが常にある。そうならないのが一番ではあるが、もしそうなったときに、同じように後悔したくない。「あの人には普段から伝えたいことを精一杯伝えられていたな」と思いたい。そういう気持ちがある。

 

そういうわけで、今は対象のもの・人を問わず、愛(好意)と感謝はできる限りちゃんと相手に伝えることにしている。ここぞというときに伝える方が重みが出るとか、大の男のくせに子供っぽいとか、暑苦しいとか言われるかもしれない。全くその通りだ。が、自分には洒落た言い方とかさりげない伝え方というのは難易度が高すぎるので、もうこの頃は開き直っている。

 

大げさではなく、自分の人格を形作ってくれたたくさんの作品、そして今現在の自分とコミュニケーションを取ってくれる人達には、どれだけ感謝してもし足りないと思っている。特に人間関係については、自分がたくさんの人に好かれるタイプの人間ではないという自覚があるので、気付かないところでさぞかしたくさんの気遣いをさせてしまっていることだろう。そうした有形無形のコスト・エネルギーに対して全て報いることは到底できないけれど、せめてありがたいという感謝の気持ちは持ち続けなければな、という思いが強い。

 

毎日、いろんな人に気持ちを助けてもらって、自分は何とか生きている。自慢できることなんて、面白い知り合いが多いということくらいだ。それがなくなったら、特に何もない人間だ。だから、せめてその人達には、何が素敵だと思うかを伝えたいし、いつも仲良くしてくれてありがとう、と伝えたい。伝えずにはいられない。

 

全ては自己満足だ。自分が伝えたいから伝える。それだけだ。もちろん、相手が喜んでくれたり、同じ気持ちです、と言ってくれたらそれは最高に嬉しいけれど、そんなことは当然ながら期待するようなことではない。ここは間違ってはいけない。何よりも自分が後悔しないために、愛と感謝は大声で伝える。思い立ったらそのときに伝える。何回でも伝える。そういうことでやっている。

 

友人知人、フォロワー各位においては、何と暑苦しく押しつけがましい人間と知り合ったものかと頭を抱えられていることだろう。ただ、自分のこのスタイルはおそらく、この先ずっと変わらないか、より暑苦しくなっていくと思う。なので申し訳ないが、知り合いの中に一人くらいこういう奴がいても仕方ないか、くらいの気持ちで大目に見ていただければありがたい。

 

最後に、確実に言えるのは、愛も好意も感謝も、伝えるときには常に一切の嘘がないようにしている、ということだ。思ってもないことは伝えない。くどく感じたとしても、毎回全力で本気なので、どうかご容赦願いたい。

 

BIG LOVE and THANKS......