灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

先輩から後輩へ、過去から未来へ

以前からずっと心にあった信条は、子供が産まれて、自分よりずっと若くて尊敬できる友人が増えて、一層確固たるものになった。

 

人は、より若いもののために生きるべきだ。

 

動物が群れの子を懸命に守るように。

 

君臨していたボスがより若いものからの挑戦を受け、その座を譲り渡すように。

 

そうして、種の存続と進化のために、たくさんの生命が巡っていくように。

 

それこそが、人間にとってもあるべき姿だと信じている。

 

 

俺は、とにかく後輩に恵まれる方だ。

 

ここでの後輩とは、同一組織への所属者という狭義のものではなく、自分と交流のある歳下の人全般を指す。

 

面白いやつ、尊敬できるやつ、とても年下とは思えないくらいの考え方を持っているやつ、自分にない情熱を燃やしているやつ。

 

そんなみんなに、数え切れないことを教えられながら、今日まで生きてきた。

 

その中には幸いにして俺を慕ってくれたり、尊敬していると言ってくれるやつもいた。自分には勿体ない、とはこういうことを言うのだろう。

 

俺は、彼ら彼女らのために、何ができるだろうか。何を伝えられて、何を残せるだろうか。

 

そればかりをいつも考えている。

 

当然ながら、押し付けがましくならないようにはいつも気をつけなければいけないし、年齢を問わず対等に付き合ったときにこそ、お互いにとって得るものがあるというのも間違いない。

 

だから、ここから綴るのはあくまで俺の信条、俺の美学、俺の心がけ、俺の人生の指針だ。

 

 

自分よりも歳上の人物への敬意。

 

それも、俺の中にないわけではない。

 

その人の生きてきた時代ゆえの苦しみ。その中で育んできた信念。周囲から尊敬を集める振る舞い。選んだ道で生き続けていく覚悟。

 

そういったものを持った人生の先輩には憧れるし、自分には到底かなわない大人物だと、感嘆しながら見上げることもある。

 

一方で、ただ自分より歳を取っただけだと感じる人物、自分の延長線上にいるか、それよりも明らかに軽蔑に値する要素を抱えた人物に対しては、無条件に敬意を払い頭を垂れることが、どうしてもできない。

 

生意気極まりない話だが、30を超えても尚、俺は会社の上司先輩の誰をも尊敬できないでいる。

 

俺はとにかく性格が悪いので、上下関係への反発、会社自体への不信感、業界そのものへの不安感といったものがその背景にあり、常に粗探しをしてしまうようなところは、大いにあるだろう。

 

ただ、スピード出世をしていても部下に怒鳴り散らして退職者を大量に出していたり、自分は何も欠点を克服しようとしないのに部下の短所ばかりを指摘したり、完璧な仕事人と評される一方で産まれたばかりの第一子とも全く触れ合わなかったり、ゴルフや飲み会で可愛がられていても自分自身に一貫する美学を持っていなかったり、そういう人物を無条件に尊敬するというのは、どうしてもできない。

 

自分よりも優れている能力に対しては、素直にすごいと思うし、今の俺にはできないな、と感じる。

 

でも、それだけだ。人格そのもの、人物全体への尊敬には至らない。

 

むしろ、「俺も50まで続けてたらあれくらいは当然できるだろう、仕事以外に何もしなかったらそれくらいになって当然だろう」というような、不遜な侮りが頭によぎることすらある。このときは当然、己にそれを継続できるかという大きな問題を無視しているのだが。

 

歳上には反発して、悪いところばかりが目につく。歳下はかわいいから、いいところばかりを見つける。

 

所詮はシンプルにそういうものなのだろうか?という気持ちは拭えない。拭えないのだが、せっかくなのでそれは置いておいて、もう少し話を続ける。

 

先輩への敬意は、たとえば体育会系だとか長幼の序だとか儒教思想だとかお年寄りは宝だとか亀の甲より年の功だとか、それを抱くことが当然と教え込まれてきたものだ。

 

それに疑問を抱かない人もいるだろうし、異論を唱える態度自体が失礼で生意気だと跳ね除けられることもあるだろう。

 

でもそこには、歳上であることの何が尊敬すべきなのか、歳上のどういった人間が尊敬には値するのか、という視点が必ずしも伴っているとは思えない。

 

儒教的な、老人への労い。技能の熟練への評価。より長い人生経験から来る助言への納得。あるいは、苦難の時代を生きて現代への礎を築いてくれたことへの感謝。

 

さらには、文明の進歩に伴う長寿化の進行。人口構成の変化。高齢支配層の固着と権力の温存による、若年者の労働を奉仕として縛りつける慣習。そうして社会に蔓延する、後輩たちに隷属を強いる圧力。

 

それら様々の要素が入り混じり付け加えられた結果、長い時を経ても、振り返られることも分析も批判もされることもなく、「先輩には従い、尊敬するのが当然」という合意が支配的なままになっていないだろうか。

 

だとしたら、ある意味で「先輩への敬意」というものは、「当たり前のこと」だ。そしてその中には、疑問を挟まずに当然のこととして処理してしまっているだけの、偽りのものが混じってはいないだろうか。

 

であるならば、俺はその逆を想う。

 

後輩への敬意。

 

己には到底できないほどの努力。人生の目標へ向かうひたむきな姿勢。深い洞察や、驚くほど完成された主義主張。全方位に貪欲な学習意欲。卓越した才能を伸ばし続ける生き方。

 

そういったものに対する、同い年の頃の自分はもとより、今の自分でも絶対にかなわないと白旗を挙げるほどの、心からの敬意。

 

当然ながら、ここにおいて若さに裏打ちされた身体能力だとか、美しい外見だとか、そういったものは関係ない。そうではない、人格そのものへの好感を超えた敬意。

 

それは必ずしも旧来の社会に漂う価値観と合致するものではなく、歳上に対する敬意と違い、当然誰もが持つべきとは定義されていないものだ。

 

俺は、そうした「後輩への敬意」こそ、「当たり前ではないこと」こそ、本物だと思う。押し付けられたものではない、理性的な判断に基づいた、一人の人間としての本物の敬意だと思う。

 

本物・偽物という区別が相応しくないのであれば、純粋。

 

その純粋を、理性的であると同時に野生動物にも似た未来の世代への期待を、俺は持ち続けていたい。

 

 

インターネットキッズだった頃、俺はいつもコミュニティで一番の歳下で、周りはみんな歳上だった。

 

たとえお互いに年齢を明かさなくても、ずっとそれが当たり前だった。

 

後輩の俺はわがままでお喋りで、やたら大人ぶりたがるくせに喜怒哀楽が激しくて、すぐに調子に乗るクソガキだった。

 

先輩たちはフレンドリーでミステリアスで、寛大でバカな話にも付き合ってくれて、カッコいい兄貴分姉貴分だった。

 

たとえ顔は見えなくても、プライベートの話をしなくても、毎日がただただ楽しくて、もっとみんなと仲良くなりたかった。

 

あの人たちのような大人になりたかった。

 

いつの間にか、集まった中で俺が一番の歳上、ということが増えてきた。一歳下と話すようになって、それが三歳下になり、五歳下、もっと下の友達もできた。

 

俺が歳上になって、周りが歳下なのが、当たり前になった。

 

歳上になった今の俺は、あの頃の先輩たちに、名前も知らなくても甘えさせてくれたあの人に、少しでも近づけているだろうか。

 

一緒にいると楽しい、仲良くなりたい、この人みたいになりたい、そう思ってもらるような人間に近づけているだろうか。

 

自分よりも若い誰かの力に、僅かだけでもなれているだろうか。

 

そんなことばかりを考えている。

 

明日は今よりもいい先輩になりたいな、と願っている。

 

 

先輩風、という言葉がある。

 

俺は特にこれがひどいことを曲がりなりにも自覚しており、おそらくは風速100mくらいの先輩突風を常に吹かせまくっている。

 

どうしても暑苦しく、重く、真剣になりすぎ、抑えても抑えてもつい説教くさくなってしまう。

 

また申し訳ないことに、俺の後輩はみんないいやつらで、俺のしょうもない長話を真面目に聞いてくれたりするので、風がますます激しくなってしまう。

 

と、これだけなら俺が特別厄介なやつだという話だけなのだが、ここであえて極論を言わせてもらいたい。

 

ほとんどの「先輩」、近しい歳下の人間と密に接するときの歳上側には、大なり小なりそういう要素=先輩風を吹かせるクセがあるのではないか。

 

そのつもりがなくても、そうしないように心掛けていても、つい年寄りぶってしまう。自分の経験を大仰に語ったり、相手の気持ちや境遇を侮ったりしてしまう。すぐに自分の過去の苦労話に持っていったり、教訓めいたことを語り出したりする。

 

青いなあ、若くていいなあ、とかボヤく。

 

こうしたクセと完全に無縁で、自分は全くどんな相手とも対等だと、「先輩」のあなたは言えるだろうか。俺は絶対に無理だ。

 

そして、その一方で。

 

このとき「後輩」は、間違いなく、大なり小なり気を遣っている。

 

少なくとも、先輩サイドは常にそう思っていた方がいい。全くそんなことないですよ、好き勝手やってますよ、お話聞けて嬉しいです、と言ってもらえたとしても、全部をバカ正直に受け取って調子に乗りすぎてはいけない。

 

俺のように、特別身勝手な奴が特別心を許せる先輩に出会えたとかでない限り(数は多くないが俺は先輩にも大変恵まれている)、後輩は常に先輩のあなたに気を遣っている。

 

極端な話、敬語を使っているだけで気を遣っている、くらいに思った方がいい。敬語税として最低限の食事代くらいは多めに払わないと釣り合いが取れないと思った方がいい。先輩側はそれくらいが丁度いい。

 

先輩は、どれだけそうではないように気をつけても、先輩風を吹かせている。

 

後輩は、どれだけそうではないように振る舞っていても、気を遣っている。

 

このことを、特に後輩と酒を飲んだり相談に乗ったりするときの先輩は、肝に銘じて銘じて命じるべきだ。

 

そうして初めて、本当に後輩の心情を考えて、後輩が必要としているものを考えて、後輩に伝えるべき言葉を考えられる。

 

本当の意味で、先輩として行動できる。

 

俺はそう信じている。

 

後輩のすごいところをたくさん褒めてあげたい。気付いてない長所をたくさん伝えてあげたい。知りたがっていることをたくさん教えてあげたい。悩んでいることをたくさん聞いてあげたい。共感してあげたい。助言してあげたい。力になってあげたい。

 

あげたい、あげたい、あげたい。

 

先輩とは、後輩のことが好きであればあるほど、そんな思いに取り憑かれてしまう生き物だ。

 

でも、それが一方的になっていないか。自己満足のためだけではないか。不必要な重荷にならないか。

 

そういうことも、先輩なら考えるべきだ。

 

伝えたいことを抑え込んで、機械的な交流に留まる必要は全くない。むしろ、たくさんコミュニケーションをとって、お互いに気持ちのいいように、後悔のないように心を通わせた方が、双方にとって絶対にいい。

 

だけど、同時に忘れないでいたい。先輩とは風を吹かせる生き物で、後輩とは気遣いする生き物なのだと。

 

だからこそ、先輩は相手のことを本当に考えて、想像してから、先輩として振る舞うべきなのだと。

 

そうして、自分なりのベストを尽くしたときにだけ、先輩はその役目を果たせる。

 

その積み重ねで、己の全力を惜しまずに注ぎ込むことで、初めて先輩は未来に何かを残せる。

 

その果てに、自分はよき人生の先輩であれたと、胸を張れる。

 

胸を張って、死んでいける。

 

俺はそう信じているから、胸を張って死にたいから、後輩のあなたのことを今日も想う。

 

クソやかましくて暑苦しくて見当外れに空回りを連発する先輩だけど、俺自身のために、後輩のあなたが喜ぶ何かをしたいと、いつも願っている。

 

エゴの塊のような信条だけど、せめてこれだけは、ずっと貫いていきたい。