灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

夏が来るのが怖いこと

6月は頭からどうにも暗い気持ちの日々が続いていた。

 

4月半ばのLiveから5月末まで、ほとんど毎週楽しいことがあるハレの時期だった反動か、それとも後輩や周囲の人たちが懸命に人生を前へ進んでいく一方で、目の前の地獄と向き合わなければいけない自分の境遇への絶望だったか。

 

ただもっと具体的に、間違いなく何よりも大きかったのは、生まれてはじめての恐怖……「夏が来てほしくない」という気持ちだ。

 

7月上旬は俺の誕生日だ。

 

7月下旬は妻の誕生日だ。

 

8月下旬は、子供の2歳の誕生日だ。

 

俺は昔から、自分が生まれたこの季節が大好きだった。夏休みもあった。山にも数えきれないほど登った。海にも行って溺れるほど酒も飲んだ。

 

働き始めてからはとにかく疲れる季節になったが、それでも休暇はもらえたので、何とかして同行者を見つけては楽しい日々を過ごしていた。

 

去年の夏は休職して2ヶ月が経って、先への不安こそあれど、フォロワーや友人にほしいものリストから人生で一番たくさんのプレゼントをもらったりして、とても嬉しかった。いつかは回復していけるだろうな、焦らずにやろう、とか思っていた気がする。

 

当時のブログを見返す勇気はない。

 

俺と妻のことは、もう、どうでもいい。

 

ただ、子供の誕生日が一日近づくごとに、胸が締めつけられるなどという月並みな表現ではなく、本当に人生で味わったことのない苦しみを味わっている。

 

脳にある感情を司る神経を、安いチーズを弄ぶように細く細く裂かれていって、いつ発狂して自殺するかをテストされているような、そんな絶望感だ。

 

味方がいないわけではない。だけど、この拷問に終わりが来たとして、その後に仲間たちが労ってくれたとして、俺の脳や内臓はもう二度と元には戻らない。

 

戦争から帰還して社会復帰できなくなった兵士のトラウマのようなものだ。街中やテレビの中で子供を見るだけで暴れ出しそうになる、この呪いの烙印を消せるという想像が、どうしてもできない。

 

近頃は食事のほとんどを依存している松屋の店内放送でまで、小さな子供がいる家族のあたたかいエピソードが流れてくるようになり、行くのが苦痛になった。

 

追い詰められているというのに、こうして回りくどい、いかにも俺らしい伝わらない例え話にしているのは、そうして少しでも格好をつけて書かないと、自分の感情と正面から向き合ってすぐにでも狂ってしまうからだ。

 

せめて泣きたいけれど、無音の一人の部屋で泣いても辛くなるだけなのが分かっている。

 

誰にも理解されないのも分かっている。

 

みんな俺なんかに割く時間がないのも分かっている。

 

ただひたすら、発狂とか自殺とか失踪とか、そういうものと少しでも距離を取るために、明日の朝まともに生きているために、何かに頭を支配させ続けながら時間を浪費して、眠くなったら寝られるだけ寝る、そういう生活をしている。

 

気を抜くとネガティブな考えに頭が支配されそうになり、そこから脱するために、ひたすらストーリーも何もないゲームの試合に没頭している。

 

アルコール依存にならないだけ大したものだと、何度も思う。

 

日記も旅行が多かった5月からはかなりサボり気味だったのだが、そうして書くことから離れていたせいか頭の中で考えをまとめて冷静になることもできず、本を読むこともなくなり、ただ生きているだけの何かになってしまった。

 

生きているだけでも偉い、という言葉も使い古されてずいぶん経つ。

 

こんな月並みな美辞麗句が、今の俺のためにあるんじゃないかと感じる日が来るとは、うつと診断されてからもまだ思っていなかった。

 

どう考えても辛すぎますよ、灰色さんじゃなかったらとっくに死んじゃってますよ、と言ってもらえたことがある。ありがたい。俺自身、なぜ生きていられているかが不思議なほどで、それはこういう言葉をかけてくれる人の存在があるからだ。

 

ただ、どんなに俺が頑張って歯を食いしばっていようが、そんなこととは関係なく、生きているだけでも、時間は経つ。

 

もうすぐ夏が来る。

 

子供の2歳の誕生日までには、何かしら今後に向けて動かないといけないだろう。一度は顔を合わせて、金のことも離婚のことも含めて話さなければいけないだろう。

 

極論、もう愛情など残っていない妻には恨みこそ骨髄なれど、最後までビジネスライクに接することでどうにか終わらせられるかもしれない。

 

ただ、子供の顔を見ることを考えると、自分がどうなるか分からない。これを打っているだけで泣いているのに、どうなってしまうのか。

 

自然な反応だよ、泣くと落ち着くよ、悪いことじゃないよ、みんなそう言ってくれると思う。

 

でも、泣いても状況は変わらないし、必死で生きているだけで偉くても、もっと死にたくなるような未来からは逃げられない。それがすぐそこまで来ている。

 

まだなんで何もかもを捨てて逃げ出していないか、あるいは首を吊っていないかといえば、それはひとえに人間関係があるからだ。

 

少なくともこの人と過ごしている2時間かそこらは、相手には迷惑千万だろうけど自分は少しだけ現実を忘れられる、そういう相手が何人かいてくれるから、わざわざ時間をとってくれるから、何とかその間だけはまだ人間でいられている。

 

そんな風にして、6月は過ごしてきた。

 

この後にやたら支離滅裂でハイテンションな記事があったり、旅の話をしてなんだかんだ楽しんでるような記事があるかもしれないが、少なくとも、未来を変えることはもうできないし、壊れた脳のどこかはもう戻らない。

 

これはうつ病寛解だとか、そういう次元の話ではない。

 

一人の部屋でコロナに感染して40度の熱で身動きが取れないところに「今後週末は家に帰ってこなくていいです」とだけ妻が連絡をしてきて、それから子供の写真を見るのはおろか他人のベビーカーとすれ違うだけで動悸がするようになった、そんな俺の脳が壊れたという、誰にも助けられないだけの話だ。

 

自伝を書くようなヒーローにはなれなくても、みんな懸命に日々を生きている。いいことも嫌なこともある中で、色んなことを我慢しながらも、大切なもののために努力したり、小さな喜びを感じたり、好きなものや人のために頑張っている、その一つ一つの人生が平等に尊い、とみんなが言う。

 

それなら、その人生をかけて尽くしてきたはずの大切なものに背中から刃物を根元まで何度も突き刺されて、自分をこの世で唯一無条件に愛してくれる生き物を奪われた俺の人生は、どうなるんだ?

 

これも尊いのか?

 

俺にもまだ生きているだけで、価値があるのか?

 

言ってみろ。その同じ口で。

 

新型コロナの陽性判定と夫婦の断絶が数時間以内に起きて、高熱があっても身動きが取れなくてもたった一人で、生活費のほとんどを支払っていた妻から一言も心配されることなく、産まれる前から丸2年以上毎日付き添って離れなかった子供と引き離されて、カレンダーの日付が進むだけで発狂に近づいている。あれだけ楽しみだった子供の2歳の誕生日まで自分が生きていられるか分からない。

 

そんな俺の人生は、それでも尊いか。

 

保険やマイホームや食品会社のCMに出てくるような、ささやかだけど幸せな家庭というやつのように。

 

Twitterでブロックしてもブロックしてもまだ流れてくる、ドタバタ育児漫画の舞台の家族ように、尊くて価値のあるものなのか。

 

誰に言えようはずもない。

 

それを言っていいのは、俺がありがたいと思えるのは、ここまでついてきてくれたネット上とその他オフラインのつながりのある友人たちだけだ。そんなフォロワーももう1000人くらい減って、俺の産まれた年くらいの人数になっちまったけどな。

 

他にもし、それでも大丈夫だというやつがいたら、生きているだけで十分だと、俺のことをろくに知りもせずに偉ぶって言ってくるやつがいたら、そりゃ大したもんだよ。

 

一寸の虫にも五分の魂、ってか。

 

一言だけ返してやる。

 

代わりにてめえがやってみろ。