灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

老人と木

ここに二種類の木の種がある。

 

一つは成長の早い、美しい花をつける樹木の種だ。

 

その花が一年のうちの短い期間だけ咲いたら、老いも若きもたくさんの人が刹那の美しさに酔いしれ、我先にと場所を取り合って酒盛りを始める。美しい国そのものを代表するようなこの花の木は、けれども人の一生よりもずっと短いスパンで樹木そのものが傷み、どうしたって枯れ果ててしまう。酔った人々が木を傷つけたり、揺さぶったり、ゲロを吐きかけたりしたら、なおさら木そのものの寿命は加速的に縮んでいく。また花を見るには、専門家が種を植えなくてはいけないが、満開を待ちきれない人々がまた花見を始めてしまうかもしれない。

 

枯れ果てた木を目に留める人はいないし、誰もそこに美しい花びらがあったことに気付きもしない。みんな、まだ咲いている他の花を求めて大移動してしまった。そこで何次会か、何年目か分からない、植物の知識のない、老いた酔っ払いたちの花見がまた始まる。

 

 

もう一つは、成長がとても遅い果樹の種だ。

 

たとえば、種を植えてから芽が出るまでに、30年。実をつけるまでは、さらに50年か、70年。

 

けれど、数えきれない季節の繰り返しの末には大量の果実をつけ、長きにわたって豊穣の季節をもたらし、たっぷりの栄養を人々に与える。大きく広がる枝葉の下にいるだけでも、それが作った日陰は人に安らぎをもたらす。適切に世話をして、何世代もの時間をかけてやれば、ゆっくりとその種子は広がり、いつか大果樹園を作り上げるかもしれない。

 

けれど、現存している果樹は残りわずかだ。誰かが、どこかの誰かたちが必要以上に取りすぎたのかもしれないし、満腹になっているはずなのに余計に食い荒らしていった者がいたのかもしれない。花見の末に訪れた不届き者が、泥酔して果実でキャッチボールを始めたのかもしれない。飲んでは吐いてを繰り返す奴らのための酒造りに中心部だけが使われ、その他の大部分が捨てられてしまったのかもしれない。

 

この果樹の種を植えた人は、どんな気持ちだったのだろう?どれほどの信念、覚悟、希望、あるいは執念を持って、種を植えたのだろう?その人は発芽の前に亡くなったかもしれない。果実をつける前に亡くなったことだけは、間違いないだろう。

 

だから、誰かを信じて託さなければ、この種を植えることはできない。自分がいなくなった後の未来も、その誰かが、他人たちが木を守ってくれると信じなければ、自分の見ることのできない未来へ希望を残すことはできない。

 

託した人々が途中で諦めたり、木材の不足を補填するために木を切り倒したり、収穫の時期に悪人が根こそぎ果実を持っていったり、あるいは天災によって植物そのものの生命が絶たれてしまったり。

 

そういう可能性、危険性を承知の上で、それに対して死んだ自分は何もできない現実を受け入れた上で、それでも遺すという意志がなければ、この人たちになら任せられるという信頼がなければ、この種を植えることはできない。

 

人はどちらを選ぶのだろう。いずれ見るものも食べるものもなくなる日まで、果実から作った酒を飲み続け、美しい花を枯らしては渡り歩くのだろうか。

 

それとも、自分はもう十分に味わったからと、大枚をはたいて果樹の種を購入し、未来を楽観視して、将来の誰かを信頼して死んでいくのだろうか。

 

どうか、老いた俺は後者でありたい。たとえ小さな鉢植えほどの面積であっても、生きている間に一つでも種を植えておきたい。

 

そうして種を植えたら、そこの土を眺めながら、あるいは枯れて周りに誰もいなくなった花の木を見ながら、一人で酒を飲む。

 

そうして、何もない地面に横たわった俺の死体も、果樹の栄養になればいいと願う。

 

 

「自分が日陰を利用できないとわかっていながら老人が木を植えると、社会は偉大になる」--ギリシャの諺、作者不明