灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

長文を読んでもらうということ【大体まいにち・4】

こんばんは、灰色ですー。

 

はい、こいつ早速サボりましたね。しかも2日連続。でもこっちは自由にやるということにしてますので気にしません。

 

タイトルの通り、今日は人に文章を読んでもらうことについての話です。

 

ツイート一つならTLを流し見してるときに一瞬目に入るくらいだと思うのですが、それが140字×4ツイート以上の長文になると、話は少し違ってきますよね。

 

そして言うまでもなくそれ以上の長さの場所、たとえばブログやnoteなんかでも。

 

俺が「いつも読んでます」って言われてめちゃくちゃ嬉しいのは、その人が俺の書いたものを読んでくれている間、俺とその人の間には一対一の対話が成立していると考えるからです。

 

メギド72の傑作イベントストーリー「死を呼ぶ邪本ギギガガス」にも「読書とは作者との対話」という一文がありましたが、レベルは違えど俺がネットに放流した長文も、似た性質はあると思っています。

 

特に最近は、情報量よりも感情の量、体裁よりも本音を第一にして書いていますので、尚のこと書いたものは「俺の言いたいこと」をそのまま反映するようになってきました。

 

そしてまた、「読まれる・読んで評価してもらうこと」を前提としては書いていません。最低限他人から読まれても日本語として違和感がないように、訴求したい層から誤解されたり不快感を与えないようには気をつけていますが、反応を期待はしないように努めています。

 

そんな俺の文章は全て、俺から直接語りかけている言葉に限りなく近いものですし、極力伝えたいことをそのまま文字にしています。

 

だからこそ、読んでくれる人に対しての感謝の気持ちは一層大きくなります。

 

俺の書く文章は読むのにも体力を使うような長文ばかりですし、クセが強くて、お世辞にも上手くまとまっているとは言えません。

 

にも関わらず、誰かが俺の書いたものを、わざわざ時間をかけて読んでくれているとき。

 

俺の言葉とその受け取り手の間には、他に何者も存在していません。意図を歪める外部からのノイズは、遮断されています。

 

それは一対一の対話に限りなく近いものだと、俺は考えています。

 

そんな風にして、自分の伝えたいことを、誰かがちゃんと、受け取ってくれている。

 

そう思えるだけで、計り知れないほどのパワーがどこかに辿り着く手助けをしてくれるのです。

 

士は己を知る者の為に死す。

 

俺は俺の言葉を受け取ってくれた人の為に死ねます。

 

逆に言えば、その人たちがいる限り、生きられるということです。

 

ブログやっててよかった。Twitterやっててよかった。

 

最近そう感じることが多い、そんな今日でした。