灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

脱・読みやすさ?

最近は詩について学んでいる。

 

正確には少し違って、「詩の教室」という本を読んでいる。

 

これが本当に面白く新鮮な本で、俺の場合は詩をnote(ブログ)に置き換えてもほとんど問題なく成立する。だからこそ刺さるし、共感するし、ため息が出るほどに納得できる。

 

本の内容を仔細に語るのはいずれ書評noteに書くとして、この本を半分ほど読んだところで思ったのは、俺ももっと言葉で遊んでいいのかもしれない、ということだ。

 

十分に好き放題していると言われそうだし、事実そうなのだが、それはどちらかというと感情を剥き出しにしているとか、独特の言い回しをしているとか、そういうことだろう。

 

そうではなく、もっと、言葉の意味や使い方から自由になる。

 

読みやすさの呪いを脱する。

 

文章が分かりやすいとどれだけ言われてきたか分からないし、それは光栄なことでしかないのだが、そのことが逆に俺を俺にとってつまらなくしていないか、と思うのだ。

 

読みやすく、伝わりやすく。大事なことだ。

 

けれど、たまにはそこから飛躍して遊ぶ自由を楽しんでいいのではないか。

 

そうしなければ、早晩俺のような凡人は頭打ちになってしまう。いや、もうとっくになっていて、上手いこと取り繕っているだけかもしれない。

 

もともと言葉遊びを弄したり、比喩を考え出すのはこの上なく好きだ。これまではまだ、人様に読んでいただいているという意識があったから、よほど感情だけで書いたとき以外、体裁を整えていた。

 

一回やめてみるか、それ。

 

読んでくれる人のことを考えるっての、やめよう。

 

これまでも考えてなかったが、そこよりもさらにひどく。

 

思い浮かんで、書きたかったら、書く。

 

まとまらなかろうが、意味不明だろうが、書きたかったら書く。書きたくなくなったら、そこで切る。

 

ただ、公開はする。

 

なんとまあ身勝手なことか。まだ読んでくれている人には迷惑極まりない。

 

ただまあ、思いついてしまったので許してほしい。

 

ちゃんと真面目な記事のときとか、どうしても読んでほしいときはそう書こう。

 

何となく、こうして書いているうちにワクワクして筆が乗ってきてしまったのだ。どうでもいいが、筆が乗るに代わる言葉がいい加減発明されんものかと思う。指が舞うとか?

 

とにかくワクワクする。というか、純粋に確かめてみたい。

 

必要とされる場面では分かりやすさを極めたままで、そうでない部分では徹底的にことばを分解して、再構築して、勝手に定義して、遊び尽くす。

 

そんなことが可能なのか。今までの俺の否定にはならないか。俺は耐えられるのか。もし耐えられたとして、その時に何が残るのか。

 

やってみるのも面白いと思ってしまった。

 

どうせ俺にはことば以外に何もないのだ。それならば、今までと逆の道も見てみよう。

 

自分にとってしっくり来るか、来ないか。その感覚だけを信じる。

 

自分にとって何か落ち着かない、ベタつきやザラつきのあるものは出さない。その中に傑作が混じっているのかもしれないが、単純に不快で仕方ないからだ。

 

歪であっても不細工であっても、それに意味があるかどうかは俺が決める。

 

低次元のものに怒り狂ったり傲慢さをひけらかすのも俺らしいといえばその通りなのだが、せっかくだし別のこともしてみたい。

 

幸いこのブログは精神と時の部屋のようなものだ。どれだけ暴れるのも走り回るのも基本的に俺の自由だ。本家は最終的に穴を開けられたりするが。

 

そういうわけで、読みやすさとか分かりやすさみたいな正道は大体やり尽くしたんで、別のルートを掘ってみようと思う。

 

ここから先は別のダンジョンだ。