灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

宝物みたいなおじいちゃんへ

誰よりも大好きな祖父が、享年88歳で亡くなりました。

 

ブログとTwitterを休止していたのも、このためです。

 

途中まではリアルタイムの状況を淡々と記載していたままなのでお見苦しい記事ですが、ご了承ください。

 

 

 

28日火曜の朝に、祖父が突然倒れました。

 

朝ごはんを普通に食べて、週に一度の脳の検査のために通院の準備をしていたときだったそうです。

 

搬送されて緊急措置をされた時点で医師によれば、脳出血が極めてひどく、意識が戻る見込みはないとの話でした。おそらくは今夜が峠だろうと言っていたとも、合流したときに父から聞きました。

 

深夜に電話が来る可能性もあり、当日夜は祖母を1人にしておかないために、俺が祖父母の家に宿泊しました。

 

翌日には一般病棟に移動したので、何日で状況がまた変わるか分からないこともあり、俺も一度東京の自宅に戻りました。

 

ちょうどモンハン新作の発売日で、誰が何を言わずともいつもの4人が集まってきて、日付が変わってみんな一斉にゲームを始めた頃でした。

 

祖父の容態が急変したと連絡がありました。

 

終電と高速込みのタクシーを乗り継ぎましたが、残念ながら最期には間に合いませんでした。本当にあっという間だったので、祖母を含む他の家族も同様だったそうです。

 

意識はなかったですが、生きているうちに倒れた当日と病棟移動前の2回顔を見られたので、言い方が不適切かもしれませんが、このご時世としては幸運でした。

 

大いびきをかいて寝るのが数少ない欠点の人で、1回目はいびきをかいていたのでまた起きてきそうだな、とも思い、感情を堪えるのが大変でしたが、2回目は1人ずつ対面したからか、時間が経ったからか、不思議と冷静で、一方的ながら自分の言葉で気持ちを伝えられました。

 

亡くなった直後は結局病院やら葬儀屋やら朝3時頃まで諸々ありましたが、最終的には自宅に安置された祖父の隣で熟睡しました。早寝早起きの祖母も少しは寝られたようでよかったです。

 

30日の午前中は通夜と告別式の日取りを決めたり、見積もりを取ったり、慌ただしくしていたら終わりましたが、父とその弟さん(叔父さん)が極めて冷静で的確に何でもこなしてくれているので、祖父と祖母の側にいるのが孫にできる一番の仕事と割り切っています。

 

その祖母も、俺と雑談していると少しは気が紛れるようです。30年以上美味いものだけを食わせ続けてくれた祖母なので、これくらいの祖母孝行ではとても足りませんが。

 

この家にいて畳に文字通り胡座をかいていると、どうにもくつろいでしまって、昼寝しまくっている自分に軽く呆れます。

 

俺は産まれたときからずっと、これ以上ないほどのおじいちゃんっ子で、実家が何度引っ越してもずっとすぐ近くを選んでいたこと、父の仕事が激務だったこと、母が病弱だったこと、妹が産まれると母がそちらにかかりきりになっていたこと、子供会の催事が充実していたこと……など数えきれない理由から何かにつけて預けられ、最大で年間200日以上は余裕で寝泊まりしていたと思います。

 

とにかく祖父母に懐いていて、「今日はお母さんのところに泊まるね」と家庭事情が不審がられるようなことを言う子供だったと聞きました。他所と同様に祖母のメシが美味くて食べきれないほど出てくることや、祖父におもちゃを何でも買ってもらったことなどは、もはや言うに及ばずです。

 

初孫かつ唯一の男孫だったからか、祖父母には溺愛も溺愛されまくって育ちました。結果こんな人間になってしまったのですが、ほぼ中学生になるまで、自分にとって遊びに連れて行ってくれる保護者といえば祖父母で、特に祖父と出かけることが多かったのは間違いないです。その後もずっと、盆など一切関係なく、事あるごとに何日でも泊めてもらっていました。

 

端的に言えば、遊んでもらった記憶、一緒に過ごした時間は、両親よりも祖父母の方が絶対に多い、そういう子供でした。

 

地元愛というものや、そこでの人間関係が一切なく、実家にもそこまで用のなかった自分にとって、地元に帰る=祖父母の家に帰る≒たらふく料理を食わせてもらって寝ることでした。粉ミルクからビールまで、好きなだけ飲ませてもらいました。

 

俺にとっては間違いなく、地元=祖父母のいる場所、本当にそれだけでした。

 

上手いことやきれいなことを言って気持ちを誤魔化しているというより、自分でも不思議なほど冷静で、そのことにむしろ驚いています。後から喪失感がやってくるのは間違いないでしょうが、あまりにも祖父と過ごした時間が膨大すぎて、思い出が多すぎて、現実味がないようです。

 

本当にたくさんの時間一緒にいたので、もっとあれをしてあげればよかった、側にいてあげたかった、みたいな後悔も何もありません。

 

数えきれないほど、思い出しても思い出してもあれもこれもおじいちゃんとの記憶で、思い出話や自慢話をすると、いくらあっても時間は足りません。

 

忘れないように、なんてことを言うまでもなく、何を見てもおじいちゃんを思い出すし、物心つかない頃からの地元で過ごした全ての時間、空間のほぼ全てが、そのとき、そこに一緒にいたおじいちゃんを思い出させます。

 

ここまで書いてからはあっという間に二日くらい過ぎて、土曜日に告別式まで終わりました。ここからは7/3日曜に書き足しています。

 

結局、出棺のときの祖母の挨拶では少しだけ泣きましたが、それ以外では自分が不思議なほどに涙も出ません。途方もなく悲しいのですが、数年前に母方の祖父母が亡くなってからは、どんなに元気でいてもいつかは、と覚悟を決めていたからかもしれません。

 

思い出を話しだすとキリがないというのは比喩でも大げさでもなんでもなく、今こうして打っていても頭に浮かんでくるほど、数百を軽く超えるエピソードがあって、とても書ききれないからです。ここまで極端なケースだと、忘れないように書き留めておく必要もなさそうです。

 

でもせっかくなので、自慢話だけ少しさせてください。

 

祖父は饒舌な好々爺とか、威厳のある頑固者というより、清廉な賢者というか、どこかそんな雰囲気を漂わせていました。常に穏やかな笑みを浮かべていながらも、凛とした顔つきで風格のある人でした。

 

とにかく一にも二にもテキパキと生真面目で、震災やコロナの前から防災グッズやらマスクやら電池やら何でも蓄えてあり、どんな物資もどこからかすぐに出てきたのを覚えています。備えあれば憂いなしを地でいき、石橋を叩きまくってから渡るような人でした。

 

そんな祖父の定年してから唯一の楽しみは、孫と遊ぶこと……というようなことは、彼に関しては全くありませんでした。

 

キャリアの後半頃でしょうか、郷土史の研究を始めた祖父はその世界に魅了され、定年より早く退職します。彼はそこから完全に歴史研究家となり、最終的にそのセカンドライフを30年以上に渡って謳歌することになります。

 

もともとは中学を卒業して以降技術職や研究職など理系の仕事をしていたのが、全く違う世界にのめり込むことになったわけで、それなり以上に苦労もしたのではないでしょうか。今打っていてふと、なんで歴史にハマったの、と聞けばよかったな……と思いました。今のところ、唯一の小さな後悔ですね。

 

上述した消耗品など可愛く思えるほど、家中の本棚や収納スペース、それと息子たちが巣立った後の2階を丸ごと埋め尽くしているのが、そういった歴史関係のあれこれです。書籍、お手製の資料に古地図……果てにはもはや触れたら風化してしまいそうな、俺からしたら古文書にしか見えないようなものまで、一応几帳面な性格ゆえに整理整頓はされているのですが、山のようにという言葉ではとても足りない程の物量が保管されています。

 

勉強熱心というのでしょうか、研究熱心というのでしょうか、とにかく、頭と手と、ときには口も動かし続けた人でした。倒れた当日もコピー機の調子が悪いということで父を呼んでいたそうですが、70近くなってから始めたPCでの文書作成も独学で随分と上達し、立派な書き物をたくさんこなしていたと聞きました。

 

祖母のように並外れた肉体の強健さこそありませんでしたが、十二分に健康で、年相応に何度か大病をしてもその度に回復し、直前まで自転車であちこちへ足を運んでいました。住職とも普段から親交があり、最近も度々会っては歴史談義をしていたので、訃報を聞いて大いに驚いた程だったとか。

 

生真面目さゆえか酒もタバコも一切やらず、また父世代以降が異常にお喋りな灰色家にあっては、比較的物静かな人でした。ただし無口というわけではなく、声も内容もはっきりと喋る人で、今年の正月もそれは健在か、むしろここ数年より元気に感じたほどでした。

 

講演会など、人前で喋る機会が特別に多かったからでしょうか。論旨が不明瞭なことを喋ったり、何を言っているか分からなかったり、同じ話をすぐ繰り返したり、そんなことは一度もない人でした。

 

あれは確か小学生の社会科の授業だったでしょうか、生徒の祖父母の中で戦争体験を話してくれる人を探すという話になったとき、歴史家ということでうちの祖父に白羽の矢が立ちました。

 

元々はおそらく、食糧難とか疎開の話を聞く程度のイメージだったと思うのですが、随分と気合いを入れてきたのか、祖父の用意してきた書物・資料の類や講話の量と内容は圧倒的で、先生も圧倒されていました。

 

学年全員の前で講演する彼は、いつもの姿と全く違って見えて、誇らしい気分になりました。

 

講演会が終わり、資料を返してもらうとき、俺が懐いていた当時の担任の先生から、「灰色は宝物みたいなじいちゃん持ってんだなあ」と言われたのが、なんだか無性に嬉しくて嬉しくて、一生忘れられない言葉になりました。

 

その後も小学校の教科書の「このまちの歴史を聞いてみよう!」みたいなコーナーに◯◯さん(苗字)として出演してコメントしていたりと、自らが研究を深めていくだけでなく、接する相手によって伝え方や言葉を分かりやすく工夫したり、そういったことがごく自然にできる人でした。あの頃は理解できなくても、今の俺なら分かるという話も、きっとたくさんあったのだと思います。

 

人前で堂々と喋る彼の姿は、祖母のチョイスによりそのまま遺影になりました。つい最近の講演会での姿だったそうで、きっちりとボタンを閉じたシャツがよく似合っていて、普段以上に精悍な顔つきに撮ってもらっていました。まるで目の前の人たちに語りかけてくれているような写真で、あの祖父にはこれ以上ないほどピッタリだなと、俺も家族もとても気に入りました。

 

記憶と全く変わらない祖父の遺影は、見ていても悲しさより懐かしさを覚えるくらいでした。今日も泊まり込みを終えて帰宅する前に、そいじゃあまた来るからねー、といつも通りに挨拶をして出てきました。

 

何百回一緒に風呂に入ったか、何千回一緒にメシを食べたか、果たして見当もつきません。畳の部屋はやたらと居心地がよくて、俺の友達を連れていってゲームをしたりしたことも何十回とありました。

 

誰に話しても羨ましがられるような、元気で立派なおじいちゃんでした。

 

どれほどの時間を研究に打ち込んだのか、どれほどの成果を残したのか、虫眼鏡を片手に古地図と格闘しているのを横でたまに見ていただけの俺には、想像もつきません。

 

ごく狭い分野の研究だったと思いますが、きっと祖父にとっては生涯をかけて打ち込む価値のある、大仕事だったのだと思います。或いは、その道半ばで倒れてしまった、ということかもしれません。

 

弔問の際には、彼の温厚な人柄を知る誰もが、何でも知っていて色んなことを教えてくれた、うちが大変なときに本当に世話になった、などと口々に言っていました。

 

見知らぬ親戚から自分の知らない一面の話を聞いても、それは祖父らしいな、と思うことばかりでした。

 

それほど、誰から見ても非の打ち所がない人格と知性を備えた人でした。

 

祖父母については俺も事あるごとに自慢話をしていますが、どうやら祖父の方もそうだったようです。灰色くんも大きくなったね、お話はよくおじいちゃんから聞いていたよ、とこちらの記憶にはない親戚からたくさん声をかけられ、困惑しつつも嬉しくなりました。

 

祖父にとって、俺が少しでも自慢の孫であれたならよかったな、と心から思います。

 

かわいかった(であろう)俺がひねくれながら成長して、口が悪くなり悪態ばかりつくようになっても、祖父はいつも優しく笑っていてくれました。嫌な記憶など本当に一つもありません。

 

ついさっき、タクシー会社の番号が載っていないかと、電話の横にある古びたリストをめくってみました。

 

「重要」という見出しのページの一番下に、俺が3歳まで通っていた保育園の名前と番号が書いてあって、掠れていてもまだ綺麗な字が読めました。

 

だいぶ遠くにあった保育園も、その後の幼稚園も、習いごとも、熱を出したり怪我をしたときも、いつも自転車の後ろに乗せてくれていたのを思い出しました。

 

俺の漫画を買うためにわざわざ大きい書店まで連れていってくれたこともあれば、せっかく導入されたPCを俺がネットするために占有してたこともありました。夏休みが来れば受験勉強のためにぶっ通しで泊まり込み、予備校やら塾の講習なんかよりも、よっぽど集中できて捗りました。

 

大学に入って成人してからも、山に行くのに早起きができないからとか、バイトに行くのに早起きができないからとか、しょうもない理由で足を運んでは、腹一杯食べさせてもらって爆睡してました。社会人になってからでさえ、久々に栄養摂りたいからと、会社帰りに乗り換えて泊まりに行ったほどです。

 

結婚式のときは、乾杯の挨拶を務めてくれました。

 

マスクをつけてのお宮参りで、遠慮して抱っこはしてくれませんでしたが、何とかひ孫を見せることもできました。

 

ただ、祖父の生真面目さと用心深さのためにコロナ蔓延後は正月の集まりもなくなり、結局その後は写真や動画を見せるだけになってしまいましたが、随分と喜んでくれていたようです。

 

今年の正月に会ったときも適当に誤魔化したので、結局祖父は自分の休職以降の状況も、そして今年に入ってからの家族のトラブルも、一切知らずに亡くなりました。

 

少しの負い目はありますが、むしろこれでよかったのかもな、と自分に言い聞かせています。

 

最後の記憶の中にいる孫が、健康で、幸せで、少しでも立派で、そのままなら、これほど嬉しいことはありませんから。

 

昭和一桁生まれで、若い頃は苛烈な一面もあったと聞いたことがありますが、俺にとっては全くそんなところを見せることはなく、ひたすらに優しく、世話焼きで、成人して何年も経つ俺がスーツを着ていても小さい頃のままで扱ってくれるような、そんなおじいちゃんでした。

 

俺の好物を持ち前の記憶力でいつまでも覚えていて、幼稚園時代のアンパンマングミに始まり、少し経つとそれがアスパラガスビスケットになり、オールレーズンになり、最終的にはエビスビールの500缶をたくさん買って冷やしてくれていました。こう書くと本当にどうなんだという感じですが、それくらい最後の最後まで甘やかされまくっていました。

 

生真面目といえば、リモコンのボタンが1のところだけ壊れるくらい、NHK以外は全く観ない人で、CMという概念がないため、祖母や俺が民放を観ているときのCM中も画面をずっと見つめていました。その様子がおかしくて、そんなんじゃ目が疲れるよ、と2人で何度も笑っていました。たまに大河ドラマを一緒に観ると、嬉しそうにあれやこれやと解説してくれました。

 

まだ一緒に風呂に入れるくらい俺が小さかったとき、祖父が家を建てたことについて俺が聞いたら、この家はおじいちゃんのものじゃなくて、おばあちゃんのためのもの、おばあちゃんと一緒に住む人のものなんだよ、と言っていました。そのときは違いがよく分からなかったので、さらに聞いたら、もしおじいちゃんが亡くなって、灰色が一緒に住むのなら、この家は灰色のものだよ、と説明してくれました。

 

おじいちゃんが死ぬという話が想像できなかったのか、単にそれを考えるのが嫌だったのかで、それでもよく分からないと言ったような記憶がありますが、今なら彼が言いたかったことが理解できます。本当にどこまでも純粋で、生真面目な人だったんだな、と思います。

 

キリがないのでやめようと思いつつ、書きはじめるとやっぱり止まらないものですね。

 

俺は結局、超生真面目な祖父とは似ても似つかないような、不真面目でひねくれた孫に育ってしまいました。賢くてカッコよかった祖父から何かを受け継げたかは分かりませんが、父や俺が人前で喋ることを嫌がらずに引き受け、堂々と臆せずに話せることや、目の前の相手に分かりやすく伝わる言葉を選ぼうと努める性格は、もしかしたら祖父の血なのかもしれませんね。

 

きっと、祖父と俺とはもう十分に一緒に過ごしたから、今の気分もどこかスッキリしているのでしょう。ドラマのように今際の際に立ち会って、遺言を聞いて、悔いなく見送る……みたいなことはできませんでしたが、俺と祖父に限っては、そんなものは必要なかったのかもしれません。

 

祖父からは、俺一人じゃ受け止めきれないほど、純粋で大きな無償の愛を、32年間ずっともらってきました。

 

それに対して、俺が祖父を愛する気持ちは、結婚式くらいでしか言葉にして伝えられていなかったかもしれません。ただ、電話して泊まりに行って、他愛もない話をしていても、いつも嬉しそうにニコニコしてくれていたので、少しでもそれがおじいちゃん孝行になっていたらいいな、と願っています。

 

結局、介護とも延命とも全く無縁のまま、本当に一瞬で亡くなってしまいました。晩節を汚さず、という言葉もありますが、最期まで見事な顔をして、生真面目で他人を困らせなかったところまでも、あの人らしいなと感じます。

 

まだ幼稚園に通っていた頃、俺が二十歳になるまでは元気でいたいね、と風呂で言った祖父に、それが何年後でおじいちゃんは何歳になるのかと、指折り数えていたことを思い出します。

 

そのときは現実味もなく、はるか先のことだと思っていましたが、結局それから干支が一周するまで、祖父はずっと元気でした。

 

みんなが、という冠言葉を付けるまでもなく、誰よりも俺自身が一番尊敬する人でした。老人嫌いを拗らせている俺でも、この人みたいに生きたい、いやこの人にだけは敵わない、と会うたびに感じさせられるような、大きくて気高い人でした。

 

誰かのことを悪く言ったり、近頃は若者はと説教臭く喚いたり、自慢話をしたり、祖母や家族に対して横暴に振る舞ったり、そんなことがただの一度もない人でした。

 

まっすぐな背中を孫に見せながら、生真面目に、最後の最後まで彼らしく、自分にしかできないことをして生き抜いた人でした。

 

そんな祖父のことを思うと、葬儀が終わったばかりだというのに、いつも遊びに行っていたときと同じく、俺の方がまた元気を貰っているような気がしてきます。

 

誰よりも大好きなおじいちゃんだったので、前々からもしものときは自分がどれほど取り乱すかと思っていたのですが、こんな気持ちになる別れもあるんだな、と驚きつつ、俺とおじいちゃんは特別なので、と納得もしています。

 

 

あれほどの生真面目さや謙虚さはちょっと身につけられなさそうだけど、俺もおじいちゃんのように生きたいな。

 

いつまでも堂々としていてカッコよく、何歳になってからでも自分の尽力すべき役目を見つけて、それをどこまでも貫いて、家族を愛して、自然とみんなからも慕われて、尊敬されて、そうやって自分の納得するように生きていけたらいいな。

 

自分なりに、少しでもおじいちゃんみたいな理想の姿に近づけるように生きないとな。

 

そんな気持ちを、亡くなってからもまた教えてもらいました。

 

彼はきっとこれからもずっと変わらず、俺がふと思い出すたびに、色んなことを教えてくれる優しい人であり続けてくれるでしょう。

 

世界一尊敬するおじいちゃんに、また孫自慢をしてもらえるように、俺も自分なりに精一杯やっていきます。

 

だから、大好きなおじいちゃんに向けては形式ばらず、いつも通りの挨拶だけでひとまず終わりたいと思います。

 

 

今日もありがとうね。また遊びに行くから、それじゃあ、また今度ね。