灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

己のみが

気がついたら風邪ひいたりとかでこっち2週間更新してなかった。もう大体でもなんでもなくなったからタイトル取ろう。

 

はてなが使いにくすぎるのも間違いなく原因というか、noteも運営がカスすぎるという問題はあるのだがUIとかシェアのしやすさとかあらゆる面で勝負にならないくらい優れている。そもそもはてなのアプリは保存できるチラシの裏以上の機能が本当に皆無で(しかもしょっちゅう消える)、はてな公式(?????)まで飛ばないと他人の記事一つさえ読むことはできないし、その公式さえもトップからは記事検索が見つからないとかいう終わりっぷりだ。今改善されてるのかは知らない。

 

Amazonユニクロ奴隷労働問題とか飲食チェーン過労死問題と同じで、というか俺に言わせれば日本経済そのものがトヨタを頂点にした大奴隷制度なのだが(共産主義者ではありません)、結局のところ人権とかSDGsとかそういう正しさらしきものは個人のこだわりと経済的・利便性的なメリットとのトレードオフでしかない。

 

真にフェアトレードしてるコンプライアンス完璧企業の製品しか買わないとなったら生活費が何倍に膨れ上がることか分からない。俺は途中で考えることをやめた。ワタミはキモいから行かないとか逮捕されてない詐欺師界隈は勘弁してほしいとかその程度だ。だから結局は個々のトピックに対してどれだけ神経質か、無神経になれるか、そういう話でしかない。

 

自分が依存している価値観や集団を絶対的正義と盲信できるのは多角的な思考をそこでストップさせられる知能指数の持ち主というだけだ。思考停止を避けて個別判断でグレースケールのグラデーションを判定し続けるというのは大層ご立派で尊敬すべき態度だが、それを許されるのは無限の時間を持て余している者か、あるいはその思索自体が金を取れるだけのドレスをまとっている場合だけだ。思いきり思考停止するのも、そこから限界まで距離を取るのも、できるのは幸せ者だ。

 

結局のところ俺みたいな半端者は、自分なりのコストパフォーマンス判断に基づいて、何について思考を止め、何については考え抜くかを取捨選択して世の中を受容していくしかない。当然ながらここでいうコストというのは体力とか時間とかあらゆるリソースの総称だ。タイムパフォーマンスとかいう語る価値のないバカの言葉を用いたくはない。

 

全く都合のいいことだと自分でも呆れるが、都合よく生きていかないと体力が持たないのだから仕方がない。自分のこの先一ヶ月に影響がないことに気を揉んでいちいち義憤に燃えられるほど俺はタフでもなければ暇でもない。というか今の状況的には憎悪をばらまいたり反社会行動に走ったり速効遅効の自傷行為に溺れてもおかしくないわけで、そういうことをしない理性だけでも買ってほしい。

 

こっちはもうアップデートされた社会とやらが理想としているらしいものから更に一周回って毎ターン7〜10万円のダメージを受ける縛りプレイつきの人生2周目に入っているようなもので、正直ほとんどの社会問題とされるものにどうでもいいと唾を吐きたくなるときもある。私が嫌だから規制すべきという理論がもしもまかり通るなら全ての子供番組を放送終了してあらゆる親子連れの外出を禁止してほしい。私が不快で傷つくから理論を本気で振りかざせる人間、マジでうらやましい。俺もそれくらいバカになりたい。

 

結局のところ己なのだ、と思う。利己とか利他とかそういう薄っぺらな二元論もどきの言葉遊びではなく、生きていくには己しかいない。このところはひたすらその思いが強固になる一方だ。もともと大きなものへ属することに耐えられず、適性もなく、年代家族地元母校会社同期その他あらゆる属性的なものに馴染めないで生きてきた。

 

中二病とか斜に構えるとかひねくれてるという次元を超えて、物理的に同期の数はどこに行っても一番少なくなるし高校大学とジャンプジャンプで周囲の人間の質が変わっているしでだいぶ筋金入っているので、これはもうそういうものだと受け入れることにしている。そもそも「斜に構えているやつをバカにする」というスタンスを取ること自体が「その方がまともらしい」という空気に流されているようにしか見えないので、相手にするのはエネルギーの無駄だ。

 

「自分語り」をバカにするのは語るほどの自分がないと言っているのと同義だ。己のないスカスカな人間は一切向き合うに値しない。借り物の言葉を振り回して強くなった気でいるのは無料使い放題の武器でイキがっているのと変わらない。素手でも相手にならない。

 

なんという思い上がり、なんと哀れな人間かと自分を軽蔑する毎日だ。こんなことではいけない、人格が疑われるのはこちらの方だ、何一つ成長できないといつも焦るし不安になる。

 

間違いなく、自分より絶対的に優れたロゴス・パトス・エートスを持つ誰かに徹底的に打ちのめされた方がいいのだろうと思う。そうした経験がないままここまで来てしまった。たとえ違う意見を目にしても、それはロゴス=論理や内容に限った話で、稀にパトス=熱意も備わっていることがあるかもしれないが、エートス=仁徳を持ち人間的に尊敬できる相手であるということがない。そうである限り、どうしても相手の人格的欠陥、総体としての醜さが気になってしまい、謙虚になりきれないのだ。賢者は愚者からも学ぶというが、てんでなっていない。

 

この傲慢さを改善しない限りはどうしようもないと思うのだが、全面降伏を許せない、噛みつかずにはいられない狭量な性根が治らない。結局、己の頭の回る範囲で自己弁護と自己否定を繰り返し、己を鍛造し続けるしかない。そうして一層頑固に、意固地に、独りよがりになっいく。

 

それでも己を破壊してくれるもの、そしてそれを快く受け入れられるものがあるとしたら、本しかないのだろうと思う。筆者と擬似的にタイマンを張り、完敗すること。おそらくそれが、今の俺にできる最も手軽な治療法だ。ただ、分かっちゃいるけどそういう読書は非常〜にタフで気が重い。ずっとミステリとか読んでたい。凡百の自己啓発本なんて何の意味もないので、勝負するならガチガチの古典しかないと思うのだが、バトルする気力がなかなか起きないのが難点だ。結局、易きに流れるばかりである。

 

己。

 

己、己、己。

 

どこまで行っても己しかないのだ。

 

小細工で他人を上手く誘導できることはあるとしても、他人が自分の期待に応えてくれるということは、本質的には有り得ないのだから。

 

少なくとも、それを信じるには、俺はもう砕けて疲れすぎた。

 

他人に生を完全に破壊された人間が拠り所とすべきものは、己しかない。

 

たとえ去勢だろうとハリボテだろうと、己は強いのだ、己は賢いのだ、己こそが真なのだと、言い張って生きていくより他にない。

 

己以外に責任を取ることも、己以外に責任を取らせることも、もううんざりだ。