灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

世界のグラデーションを見る目

浅学の身で仮に「賢さ」というものを定義するなら、その一つは世界のグラデーションを認識する能力、言い換えれば「目」ではないか。という話です。

 

またお前この話するのって感じですが、今自分が生きている現代が最も先進的で完全な倫理観アップデートがなされている・なされるべき時代であるという信条の方って多いじゃないですか。

 

これって一面的には、欧米(とあえて言い切る)のステレオタイプ進歩史観啓蒙主義とすごく相性がいいんですよね。

 

そこに出羽守的なウエストコンプレックスが混じったときの醜悪さと破綻具合については触れるまでもないんで省略しますが、それはまた別の話です。あと宗教的なものも勉強不足なので省きます。

 

で、そういう人々って、過去の学問とか芸術的な価値の破壊行為にもたいへん積極的ですよね。場合によっては歴史の中で蓄積されてきた科学の知見に対しても真っ向から反論して、架空の被害者およびそれに配慮する自分の気分を害するという理由から見境なくカウンタークラッシュを繰り返していきます。

 

俺は冗談ではなく本気で、いずれ彼ら彼女らはミロのヴィーナスを「腕がないのは女性の無力さの象徴であり差別的だ」と言って破壊すると思っています。

 

そのクラッシャーなスタンスを貫いていくと、最終的にはどうなるか。

 

「蓄積された科学の公平性、時代を越えた評価を獲得してきた芸術の価値よりも、合理的な根拠のない自らの情緒を尊重されるべき絶対上位と置き、直接的・間接的な暴力によってそれを主張する」ことになります。

 

別の言い方だと、「時代と共に科学は進化しており、従って現代の人間が一番優れているはず」という進歩主義らしきものから、科学(およびその根拠を担保する客観的に確認可能なデータ類)を取り除き、代わりに倫理と主張する何か曖昧な感情論を置いている感じでしょうか。

 

概ね客観的とされている知識の蓄積と過去の人々の努力や偉業を否定して、代わりに思いつきの感情だけを信奉するようになった、お気持ち至上進歩啓蒙主義とでも名付けましょう。長い。「お気持ち進歩主義」かな。

 

ついでに言うと、その進歩主義のゴールは現在この時とされています。なので、今の私たちの価値観も相対的には未熟かもしれない、もっと気付くべきことが先々新たに明らかになるかもしれない、だから我々自身ももっとアップデートをしなければいけない、という謙虚な視座は一切欠如しています。自分たちこそ至高にして正当全能の倫理存在であり、アップデートとは高邁な精神を持つ我々が衆愚へ義務として指示するもの、という姿勢ですね。

 

そういう人、多いですよね。

 

当然の注釈になってしまいますが、変えられるべき既存の権力や差別構造に疑問符を投げかけてNOを突きつけるとか、掬い上げられてこなかった人々の声を集約して然るべきところに届けるとか、そういう諸々は本当に大切ですし、そのために純粋に尽力されている方には心から敬意を表します。

 

ただ、一方で「お気持ち進歩主義」の奴隷になって暴力を繰り返しているだけの人々は、多分世の中の物事のグラデーションが理解できないんだろうな、と思います。

 

明らかに黒いものに黒というだけじゃなく、白以外の色が一滴でも混じっているものが目に入るたびに片っ端から不潔だと喚き立てて火炎放射器で消毒するようなことは、理性ある生き物としてどうなんでしょうね、ということです。

 

白と黒という表現を使いましたが、過去の巨大文明から現在の日常生活に至るまで、世の中のほとんどのことは正邪のグラデーション図のどこかに位置しているというのが、俺の考えの根本にあります。

 

その中には、容易に言葉にできないような微妙な色の差異もあれば、どうしても自分には許せないような、否定せずにはいられない相違もあります。だからこそ、物事一つ一つの色の違いを認識できるためには、己自身の「目」を育てなければいけないのではないでしょうか。

 

その手段の一つが学問や芸術であり、また別の一つは他人との交流や成功失敗体験の積み重ねであり、そういったあらゆるものが、日々自分の目を育ててくれます。俺は権威・教養至上主義者ではありませんし、人生経験と年功だけを崇拝してもいません。そのように、何か一つの道が最良の手段でそれを満たしていない者は未熟である、などと言う気はさらさらありません。何かをするとき、これは自分の目に影響を与えているな、と意識しながら日々を過ごすだけでも、必ず一つ一つの行為が意味を持っていくと考えています。

 

そのように意識して目を育てていき、また自分の目を通してどう世界が見えているのかに注意を傾けてみると、やがて様々なことが分かってきます。綺麗に見えても自分は綺麗だと言いたくない色や、汚いとされていても実はそうでないことが理解できた色など、グラデーションに浮かぶ一つ一つの物事に対する認識が、少しずつ輪郭を持ってきます。

 

一方で、グラデーションを理解するということは、容易に判断を下したり結論を出したりできなくなる、ということでもあります。「いいところも悪いところもある」という認識は、最も人間がストレスを感じる状態です。これは味方、あれは敵と、全てを極論二元論で片付けた方が楽なのは間違いありません。

 

でも、大変だからこそ自分だけの目を育てることにはきっと他人には作れない価値があるし、「いい面も悪い面もある」から頑張って一歩進んで、じゃあ自分はそれを肯定するのか否定するのか保留するのか、その理由は何なのか、まで考えることが、大切なのではないでしょうか。

 

「人それぞれだよね」と言ってしまうのは簡単ですが、そこからもう少し踏み込んで、その人それぞれの中でも自分の立場はどうなのか、をちゃんと言葉で持っておくことが、必要ではないでしょうか。

 

そうやって個人が人生を通じて作り上げていく判断基準、磨き上げた目こそ、俺が考える「個性」と呼ばれるべきものです。

 

それに完成や終わりはありません。生きている間はずっと己の判断基準を信じては疑い、そこから離れてはまた戻り、肯定と否定を繰り返しながら生きていくだけです。

 

そうした姿勢は、オピニオンリーダーと呼ばれて権威ぶるだけの者を盲信することや、声が大きいだけで称賛を集めている者の主張にそうだそうだ言う通りだと喚くこととは、言うまでもなく真逆のあり方です。

 

それは一人の人間として考え、生きることです。

 

真面目にやったらクソ大変ですけどね。世の中のありとあらゆることに対して、いちいち真剣に向き合ってたらとても精神が保ちません。俺も元気ないとき(大体いつも)はロクにニュースとか見ないんでそれは本当によく分かります。

 

なので、最初は自分の絶対に譲れないことから始めてみるのがいいでしょう。

 

あなたの心の中にもきっと、有象無象の主張には簡単に左右されない、譲れないことが存在していると思います。

 

あなたにとって譲れないこと、当たり前にやっていること、絶対に許せないことは何なのか。何が好ましく、何が嫌でたまらないのか。何故、あなたはそう感じているのか。

 

まずはそれをいつでも言葉にできるくらい、突き詰めて考えてみてはいかがでしょうか。それは即ちあなたの価値判断の核を見つけることであり、目を育てる最初の一歩です。

 

俺はそんな「個性的」な人たちと話をしてみたいと、いつも願っています。

 

逆に、物事の色の違いやそれを見る目に一切考えを巡らせられない人は、何かの価値を判断する能力に優れているとは言えません。

 

世界を見る自分の目を育てることを意識せずに生きてきて、物事の色の違いを認識できない人、そしてそれに無自覚な人は、そう簡単に誰かのことを断罪したりするべきではありません。

 

自分が白いと思ったか黒いと思ったかだけを根拠として、正義の名の下に振り回すべきではありません。それが誰の目にも明らかな犯罪でない限りは。

 

なぜなら、その判断は自分自身のものではなく、何か良くないらしいことを大声で悪だと断定する、どこかの誰かの影響を受けているだけだからです。その目には白と黒以外のどんな違いも、どんな美しさも、見えていないからです。

 

それは唾棄すべき主体性のない攻撃、敵の見えていない暴力です。

 

むしろ自分がやっていることの意味、色も理解できてないから、容易に暴力を振るうのかもしれません。血の赤色も理解できないということなのですから。闘牛の牛は赤い色ではなく布のはためきに興奮しているだけだ、という有名な話を思い出します。

 

自分がどう感じたか、という始まりを否定する気は更々ありません。目に映るたくさんのものに対して是非の感情を抱き、その良し悪しを考え、意見として持つのは大切なことです。ただ、二つ大切なことを考えてほしいだけです。

 

一つ目に必要なのは、自分が抱いた感情の由来、背景、根底を考えることです。とにかくムカつくからムカつく、理由は関係ない、というのはただの思考放棄です。どんな突発的な感情にも、たとえ「生理的に」とか言われる反応にも、何らかの要因はあります。それを考えることが一切不要、怒りと行動さえあればいい、というのでは、眼前に落ちてきた餌に群れで飛びつくだけの害虫害獣と何も違いません。

 

そしてもう一つ必要なのは、意見を表明する方法を考えることです。何のメッセージを、どんな理由があって、どこに向けて、どのように発信するのか。それを間違えれば、思い込みは圧力になり、共感は暴力の肯定になります。

 

多面的な検討もなく、内輪のエコーチェンバーで膨れ上がった憎悪を誰かにぶつけるだけぶつけて顧みないことは、決して社会正義ではありません。

 

SNSはどれほど攻撃的な主張も共感を呼んで肯定され、どれほど矮小な存在でも無限に攻撃力と射程範囲を拡張できる、アタックファーストの時代をもたらしました。

 

そして、すぐにアタッカー同士が連帯して過激化するシステムが出来上がりました。それは個別性とグラデーションを否定し、イノセントな人間や曖昧な態度を許しません。その点では、かつての先鋭化イデオロギーによる暴力集団にも似ていますが、現代ではもっと広域で邪悪なシステムが生まれました。

 

そのシステムは、地理その他の制約を超えて集まった参加者たちを相互に援護しあう親衛隊として組み込み、その親衛隊は些細な異論にも反応して一斉射撃する自動反撃機能を持ちます。また、親衛隊は相互監視機構でもあり、その動きに対して内側から疑問を持つと悪性変異した細胞であるとしてシステムから排除されます。

 

そうしたシステム同士が相手の姿の見えない遠方から砲撃を繰り返し、グラデーションの間に漂っている無垢なものに被害を与えては非難と自己正当化を繰り返す、そういう戦いが日々起こっています。

 

誰もが声を上げられる時代はすぐに終わり、誰もが通り魔集団に火をつけられて心身や大切なものを焼かれる時代がやってきました。立場の違いを超えて開かれた議論の場には、覆面集団から火炎瓶が投げ込まれるようになりました。

 

暴力は、善であり白である自分たち以外を全て悪だと断じ、その一つ一つに差異があることも無視して全てを黒に塗り潰してから火を放ちます。本当は自分たちが何色をしているのかと、鏡を見ることすらせずに、これが当然の義務だとばかりに火を放ちます。

 

人類史上一番たくさんの色を見ることができるはずの時代は、一番たくさんの色が塗りつぶされる時代になるのかもしれません。

 

そんないがみ合いを見て、今日もやってんなあ、と笑いながら酒の肴にするのもいいでしょう。

 

ただ、せめて自分もそうしたシステムの一部に取り込まれていないか、あるいは既に取り込まれているとしてもそれに自覚的であるか、と問いかけることくらいは、継続していきたいものです。

 

勿論これもまた、目を磨く一つの手段でもあります。今このときに立っている場所とその周囲がどんな色なのかを理解しなければ、いずれ己も極端な結論と行動に向かっていくことを避けられないでしょうから。

 

通り魔の放火魔にはなりたくありません。そう願うのは、自分も他人もみんなグラデーションのどこかに位置しているからです。

 

正常な分別のある自分と、異常な行動を繰り返すどこかの誰かの間には隔壁などありません。だから、自分も他の誰かにとっては黒かもしれないし、自分が見ている黒も他の誰かの目から見たら違うかもしれません。

 

そして何より、信じているはずの自分の目も、様々な出来事によってたやすく変化してしまいます。

 

現に今、こうして文字を打っている自分の精神はまさに崩壊しつつあり、これまで縋ってきた価値観は砕け、判断基準が信じられなくなり、アイデンティティが消滅していくと同時に色を識別する能力も奪われていっているという感覚が毎日強くなっています。これは他ならぬ自分自身のリアルタイムの状況記述であり、ここまで賢人ぶって書いてきましたが、どうしても避けては通れませんでした。

 

だからせめて、自分が世界のグラデーションの一部であること、自分の立ち位置や見え方は容易に変化しうること、そういう諸々には自覚的でありたいと思います。

 

この記事は理性の死んでいく自分が考えていることの記録であり、まだまともなことを言えていたらいいなという祈りでもあり、誰かに伝わっていたら嬉しいという願いです。

 

賢くなるということを、もし今の自分が定義するとすれば、己の「目」を鍛えて、世の中のあらゆるグラデーションを認識できる能力を少しずつでも高めていくこと。

 

それをいつでも言葉にできる判断基準として自分の中に持ち、その終わらない更新にいつまででも前向きであること。

 

そんなようなことではないかと、今の俺は考えています。