灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

頭の中の言語化装置にまつわるあれこれ

思考が先か、言葉が先か、みたいな話。

 

これについてのヒントになるような考え方が、昨年読んで気に入った本の中で少し触れられていたのを思い出した。

 

「自分の〈ことば〉をつくる あなたにしか語れないことを表現する技術 (ディスカヴァー携書)」細川英夫氏の書かれたこの本だ。(Amazonのリンクでも貼れればよかったのだが、上手くいかなかった)

 

特にしっくりきたのが、人間は思考するときも自分の身につけた言語を用いている、という説明だった。

 

この一文をきっかけに、色々なことが頭を駆け巡ってなかなか楽しい気分になった。たとえば、感情はどうだろう。瞬間的に喜ぶ、怒るというのは、言語と関係ない、コントロールできない心の現象だろうか?いや、「嬉しい」「悲しい」などと定義付けをしている時点で、それは言語を介しているのではないか?だとすると、それを惹起する何らかの事象に触れたことに対する、衝動的とも言える「反応」こそが真に一次的なもの、言語を用いない現象であり、我々が「この感情を抱いた」と認識したときには既に、それは言語の変換回路を経て固形化されているのではないだろうか?

 

こんな具合である。中学生のときに消化しておくべき幼稚なテーマだと言われればごもっとも、専門の本か論文の定義を参照しなさいと言われれば返す言葉もないのだが、とかく人間は……と一般化していいのか分からないが、少なくとも自分は、どうにものっぴきならない事情で追い詰められているときほど、こうした文字通りの言葉遊びに逃避する癖がある。

 

今まではこの遊びも脳内で飽きるまで続けていたのだが、いっそ徹底的に文章としてアウトプットしたら少し違ったことが起きるかも、と期待して、このような誰の何のためにもならない記事を書いている。したがって、たまに心優しいフォロワーからお褒めいただくような文章の読みやすさ(おそらくは多分にTwitterの特性に助けられたものだと思うが)については、このシリーズの記事には全く当てはまらないであろうことを最初に謝罪しておきたい。

 

話を戻す。我々が感情と呼んでいるものが、どこまで本能的・非言語的なもので、どこから理性的・言語的なものか、という線引きは困難だ。あるいはこれらは対立する概念ではなく、線上のグラデーションになっているかもしれないのだから。

 

よって、焦点をもう少し先の段階に進める。あらゆる思考は、たとえそれが口から、手からアウトプットされていなくとも、脳内で既に自らの身につけた言語によって形作られ、方向づけられ、整えられている。「自らの身につけた」と断っているのは、それらが言い換えれば個人の習得してきた知識であり、身体感覚であり、さらには生育環境に由来するアイデンティティ級の慣習でもあるからだ。

 

極端な例を挙げるならば、物理学を全く学んでいない人間が物理学的な思考法を用いることは困難であろうし、人を殴ったことのない人間がそのときの快感または不快感を別の感覚と関連づけて語ることはできないし、アニミズムの概念を知らない人間が霊的なものに敬意を払うということは不可能だ。

 

もっと短い言葉で言えば、我々が脳内で「まるであれのようだ」「この気持ちはあのときと似ている」と感じる、「あれ」「あのとき」は、自己に染み付いたデータからしか参照できないのだ。当たり前のようだが、この前提は時として忘れられがちな気もする。

 

そうした自分固有の蓄積データを上手く引き出して、思考の素とも呼ぶべき流動体を加工していく。この工程が思考であり、その後に音声や文字として出てくるものは当然ながら、加工工程を経て出力された思考=話し言葉or書き言葉、である。

 

そして逆に言えば、未加工・加工中の思考の素が、おそらく「モヤモヤ」と呼ばれるものの正体ではないだろうか。まだ自分の言葉で名付けることができていないものが、「モヤモヤ」ではないか、と考える。

 

さて、ようやく本題。この「モヤモヤ」を、自分はほとんど感じることがない。それこそ正確には、それと認識する前段階のモヤモヤはそこにあるのだろうが、「よく分からないけどずっとモヤモヤしてる」という状態になることが滅多にない。どんなことでも大体即座に自分の語彙で変換して、理由づけをして、向ける先を規定する。それを無意識のうちにやってしまっている。

 

では果たして、これは便利なこと、優れた能力なのだろうか?何事もすぐに脳内で言語化してしまう癖。少し前までは、あるいは心を病む前までだろうか、自分は少しばかり頭の回転が早く言葉の扱いに長けている、などと自惚れていたような気もする。前の仕事で「分析力がある」「自分の言葉で分かりやすく伝えている」とか言われていたようなことも思い出す。フォロワー「言語化が上手い」と言ってもらえるのは今でもとても嬉しいことだが、どちらかと言えば意識しているというより、無意識にあらゆる場面でそうしてしまっているのだ。最も、冷静に考えればこんなものは能力でも何でもなく、単に当たり前のようにみんなが行なっていることで、単に自分が今それを大仰に語っているだけかもしれないのだが。

 

しかし今は、このことが自分の首を絞めているのではないかと痛切に感じている。確かに、いわゆるモヤモヤに悩むことはない。むしろ、いつも頭の中が整理されていると言えるのかもしれない。だが、その結果として脳内では、名付けられ方向を決められた状態の言葉が滞留し、今度はアウトプットされるのを待って渋滞している。いや、正確には順番や列があるわけではないのだから、渋滞というほどの秩序はない。内部にガスが溜まって膨張するように、行き場をなくした言葉が頭の中で跳ね返って、単にモヤモヤするよりもタチの悪い状況に自分を追い込んでいるのだ。

 

言葉は既に出来上がっている。自分が何を言いたいか、誰に言いたいかはハッキリしていて、何ならそれに対する反応のシミュレーションまで済ませている。ただ、その全てが外へ出ていくことは勿論ない。仕上げられた言葉のほとんどは、出来上がっても出力されずに、忘れられるまでずっと脳内を大渦になってぐるぐる回っている。たとえ忘れられても消滅はせず、水路の下の方にヘドロのような澱となって沈み、ふとしたきっかけにかき混ぜられて、また浮かんできて、水を濁す。

 

自分の意思で止められればいいのに、歪に増強工事を繰り返した言語変換装置は眠るとき以外ずっとデカい音を立てて稼働しており、持ち主がどんなに疲れてもお構いなしだ。心のバランスが崩れていようがどこ吹く風のこいつのせいで、思考とアウトプットのバランスが取れなくなっている。ポジティブな好意も、ネガティブな攻撃も、頭の中に次々湧き出して、一瞬で言葉になるのに、出ていく先がない。あの人にこう伝えたい、こんなことを考えている、毎秒毎秒マシーンが言葉を排出してくるのに、それを吐き出す先がないから、行き場のない言葉が積もって詰まって消化不良の自家中毒を起こしている。

 

この一連のバグが、自分を自分で苦しめているメカニズムの一つだと考えている。一応、酒を大量に飲めば脳の働きが鈍ってかなり緩和されるのだけど、四六時中それをやっていたら肝臓と脳のどちらかがお陀仏だろう。みんな大なり小なり言いたいことを飲み込んでるんだから我慢しろよ、と言われればそれまでなのだが、とにかく装置が止められないのだ。

 

しかも厄介なことにこの工場は、プラスマイナス両方の感情を燃料にして、更にパワーを増してしまう。感情のコントロールができないというのは、自分にとってはどんどん伝えたいこと、吐き出したい言葉が生産されて、ぷよぷよの対戦で積み上がったお邪魔ぷよのように、呼吸を塞いでくることに他ならないのだ。この息苦しさはずっと前から持病としてあったけど、バランスが崩れて、感情の振れ幅が大きくなって、排出せずには自分を制御できなくなってきた。

 

だから、毎日とっ散らかったツイートをして、とっ散らかったブログを書いている。誰も見ていなくても、愛想を尽かされても、呼吸を続けるために言葉を吐き出している。この面倒くさい仕様とは、多分一生付き合っていかなきゃいけないから。