灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

ブログの力と俺の反則(書くことの話・前編)

書くことの効果はすごい。

 

何度も始めようかと思っては断念していたブログ。友人の勧めもあり、案ずるより産むが易しと重い腰を上げて始めてみたら、これが本当に面白い。ありがたいことに、いつの間にかアクセス数は1万を超えていたようだ。

 

今までの30年余りの人生で初めてというくらい、感情を剥き出しにして、体裁も世間体も気遣いも何もなく、脳から直結して書いている。これまでは酒の席でもこんなに素の心を曝け出したことはなかったし、吐き出されない言葉が頭の中を堂々巡りしている毎日だった。

 

何度も消したり戻したりを繰り返した記事もあるし、とにかく精神を落ち着けるために書きっぱなしにして、今となっては見返すこともできないようなものもある。

 

昔からフォローしてくれてた人の何人かにリムブロされたのも認識している。いい歳してどうなのかと自分自身にドン引きする気持ちもあるし、およそ他人に見せるような内容ではない、とも常々思う。読む人のことを考えて、とか、役に立てることを、みたいな良心は一切ない。

 

後から振り返ったら取り返しのつかないことをしているのかもしれない。以前よりも見苦しい、みっともない、子供っぽい、分別のない、尊敬できない、信頼に値しない人間になっていっているのかもしれない。

 

それでもやっぱり、ブログを始められて本当によかった、とつくづく感じている。

 

もともと三度の飯より喋ることが大好きで、自分の考えや思いつきを言葉にするのがとにかく快感な性質なので、それを自由に書き殴って放流してもいいというのは、これはもうそれだけで楽しいに決まっている。

 

それでも最初のうちは文章を整えたり、起承転結をしっかり組み立てたり、結論までの構成を先に考えたり、そういうことをできるだけ丁寧に考えようとしていたのだが、もうやめにした。

 

ひたすら時間がかかってしょうがないし、そうやってこねくり回した文章は結局のところ脱色脱臭されて、無味乾燥で月並みな内容になると悟った。自分のカラーとはかけ離れたものを出力しても、無闇に疲れるだけでスッキリしないし、未だに俺をフォローしてくれてるような物好きの方々も、多分全然面白くないだろう。

 

そういうわけで、最近はもう好き放題が加速し続けている。

 

それから、ブログを利用してちゃんと日記をつけるようになったのも、俺にしてみれば凄まじい成長だ。原始人が火を扱えるようになったレベルの進歩、こち亀で両津が禁煙したくらいの変化であり、ガラハドアイスソードを手に入れたくらいに長年のねんがんが叶った。それくらい俺にとって「毎日日記をつける」というのは難しいことであり、SASUKEファーストステージの反り立つ壁のごとく険しい試練であった。

 

日記では、一日を終えて振り返るというより、なるべくその日の中でこまめに下書きを更新していくようにしている。すると、自分が日常のワンシーンにもあれこれこだわりを持ったり、趣を感じたり、妙な方向に連想を膨らませたり、無限に思考が脱線していったりするのが克明にわかる。

 

そんな風に、今まで何気なくこぼしていた感情や思考のかけら、脳内を駆け巡る水流の一滴たちを、逐一拾って記録できるようになったことがすごく嬉しい。

 

気合いを入れて書く記事とはまた別の方向で、日記はそれ自体で気持ちをスッキリさせつつ、好き嫌いや考え方のクセといった諸々を改めて省みるのにもすごく有用だと感じている。

 

とは言いつつ、俺は根が構って構ってモンスターなので、ブログやTwitterのような媒体を通じて、かつそれを読んでくれる人がいなければ、恐らく書くことを全く続けられなかっただろう。

 

もちろん、バズって有名になりたいとか、論客として存在感を放ちたいとか、ブログ一つで成り上がるとか、そんな分不相応な野望は持っていない。あ、嘘です本を出すのはちょっと夢です、すみません。

 

ただ、どこかの誰かが自分の書いたものを読んでくれる、言葉を受け止めてくれるというのは、俺にとってはとても重要なことだ。

 

自分が一人ぼっちじゃないと感じられる。それは、言葉以外に縋るものがない、自信を持てるものがない俺にとって、存在を肯定されていること、生きるのを許されていることに他ならないからだ。

 

大袈裟ではなく、20年以上も前からずっと、俺はそうして何とか生きながらえてきた。数えきれないほどたくさんの人に甘えていたとも言えるだろうし、あるいは依存してきたのかもしれない。それを今でも続けられているのは、未だに成熟していない証なのかもしれないが、とても幸運なことだとも思う。

 

ただし。ツイートやブログ記事を読んでくれる人がたくさんいて嬉しい……のは間違いないのだが、俺の場合それは胸を張れるようなものではなく、はっきり言って反則技に等しいことをやっているということを、どうしてもここで触れずにはいられない。

 

俺は決して、自分の考え方や言葉で人を惹きつけたり、共感を得た結果として読者を増やしたわけではないのだ。

 

反則。あるいはもっと分かりやすく言えば、卑怯な真似。

 

それは言うなれば、フォロワー=読者の囲い込みのようなものだ。ガンガンに減りまくったとはいえ、まだ2000人と少しいるフォロワー。そのうちの多くは、HiGH&LOWの話題をきっかけに繋がった方々だ。作品自体に圧倒的な魅力があり、天変地異クラスに有無を言わせぬ引力があり、夢中になって語らずにはいられないパワーがあった。

 

その結果、作品の楽しさをネット上で共有する相手として、自分も選んでもらえた。それがつながりの経緯であり、全ては偉大なコンテンツのおかげなのだ。

 

もしかしたらツイートのクセが強いとか、他にも共通の話題があるとか、RTで回ってきた話のインパクトが強かったみたいなこともあったかもしれないが、全てはハイローがあったからこそで、その恩恵を受けてたくさんの人とつながれたのだ。

 

言うまでもなく、そのこと自体を問題視しているとか、後悔しているとか、そんなことは微塵もない。知り合った中には今まで出会ったことのないような素敵な人や面白い人、尊敬できる人が本当にたくさんいる。そうした人たちと交流できることは望外の喜びで、感謝してもしきれない。

 

ただ、その人たちが見てくれるからとブログで暴走しまくるのは、それはやっぱり反則なんじゃないか……と己を切って捨てたくなることがある。要するに、深く交流してくれる、言葉を交わしてくれる人が既にたくさんいる状態で俺は新たな書きものを始めたわけで、ハイローで稼いだフォロワーを勝手に俺ワールドに付き合わせているのだ。

 

これは全く自分自身の力ではない。そこには最初から読んでくれる人がいたのだ。あるいは、誰か読んでくれるだろうという打算があったことも否定できない。旧来の知人とは別に、フォロワーにも読んでもらえたら嬉しいな、せっかくTwitterこれだけやってるしな、みたいな自己顕示欲は間違いなくあった。

 

いや本当、全くもって卑怯なことだ。懺悔してもしきれない。

 

しきれないのだが、もうここまで来てしまったのも事実だ。なので、まだ見捨てないでいてくれる方々は、どうかこの重大な反則を許してほしい。言い訳にはならないが、自分自身もその狡さを痛いほど自覚しているので、どうか……。

 

さて、とりとめもなく長々書いてきたのだが、なんとここから先が今回の本題だ。

 

ただ、さすがに長くなりすぎたので、また前後編に切り分けて投稿することにした。というわけで、後半に続く(キートン山田)。