灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

「そんなに変じゃない」が怖かった(年末自分語りシリーズ①)

久々にこちらのブログの更新です。

 

まず、はじめに。アイドル・Finallyにハマって以降、主アカウントの方は自主的広報活動…….というとさすがに思い上がりですが、休職開始と同時にかけた鍵時代からは方針を180度転換しました。

 

わずかでも共通点があるフォロワーを極力多く獲得すること、そうして最終的には彼女たちのファンを一人でも増やすことを目標と定めて、Twitterに加えてnoteでも活動しております。

 

これはハッキリ言ってしまえば、俺がどんなことになっても寄り添ってくれる、見捨てない人たちに甘えていた鍵垢の頃と比べると、たとえ考え方が違ったり、それほど相手からの好意が感じられなくても、大目標のための手段と割り切ったアカウント活動へ移行したことを意味します。

 

ゆえに、こちらのブログは基本的に鍵垢での公開(アップ報告)にしようと思います。灰色にずっとついてきてくれている、俺なんかには勿体ない宝物のようなフォロワーだけに向けた、素の言葉を書く場所にしようと思います。

 

そのため、これまで以上に歯に衣着せない物言い、あるいは自分語りや自慢話が増えると思われますが、そんな注釈も皆さまには今更かと思われますので、どうかまたご容赦ください。

 

さて、ようやく本題です。

 

 

ちょうど俺が思春期に入った頃だろうか?

 

巷では徐々に、「人と違うことは悪いことじゃない」「ひとりひとりの個性を伸ばす」といった言説が流行り出していた。

 

その最たる例の一つが、SMAP世界に一つだけの花」だった……とここでは仮定しよう。

 

ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。

 

人と同じじゃなくていい、あなたらしさを大事に。

 

そんな言葉に、当時の自分はとても救われた……わけではなかった。

 

自分が人と違うこと、どう頑張っても多数派と同じになれないことなんて、その頃にはとっくに分かっていたから。

 

 

具体的にいつからだったかは分からない。

 

自分の家には自動車がなく、ドライブというものをしたことがないと知ったとき。

 

初めてのゲームボーイと一緒にソフトを買ってもらえるのに、ポケモンではなくメダロットを選んだとき。

 

こち亀を貪るように読んでいたせいで、日々触れる漢字を読めないことがほとんどないのに気付いたとき。

 

自分には運動神経やスタミナというものが皆無なのを知り、体育の授業がひたすら苦痛になってきたとき。

 

国語の授業で、教室の子たちの多くが流暢に教科書を音読できないのを不思議に思ったとき。

 

周囲でスマブラが大流行する中で、ニンテンドー64を欲しがることもなく、延々とモンスターファームスパロボを一人でやりこんでいたとき。

 

10歳でネット掲示板にハマりはじめ、さすがに何かを書き込む勇気なんてなかった(数年ROMってた)ものの、素晴らしい二次創作小説や企画を投稿して自分の想像力を広げてくれるどこかの誰かが、途方もなく格好いいと感じたとき。

 

この頃にはすっかり、自分と同じ趣味嗜好を持つ子供なんて周囲には一人もいない状況に、完全に慣れていた。

 

 

中学から先は、ネットの世界以外に一人も本音を話せる相手がいないことが、自分にとっての「普通」だった。

 

 

ヒトカラなんて言葉がなかった頃から、中学のブレザー姿のまま一人でカラオケに通いつめてはQueen爆風スランプを歌っていたとき。

 

学習塾というものがどうしても嫌で嫌で、夏期講習だけでもストレスが溜まって仕方なかったとき。

 

PS2時代のMHG(モンハンという略称もまだない頃)でオンラインゲームの世界にのめりこみ、1700時間超プレイした末に私立高校の受験に落ちたとき。

 

周囲がクラスの女子のランク付けをして盛り上がる中、掲示板で知り合ったひとつ上の女子校生とメールをしているとすぐ近くに住んでいることが分かり、舞い上がっていたとき。

 

高一で父親が腎癌になって、大学進学を諦めたとき。

 

そこから彼が全身転移直前で奇跡的に助かったのを機に、真面目に受験に取り組む気になったとき。

 

当時まだ大嫌いだった、元予備校講師の母親に頭を下げて英語を教わったら、偏差値50から2ヶ月でセンター160点を取れたとき。

 

ハルヒらきすたが一世を風靡する中で、一昔前のロボットや特撮ソングばかりを歌っていたとき。

 

大学のゼミで、ゼミ長でもないのに自分だけが他の学生の発表全てにコメントをしていたとき。

 

サークルで自分の同期の仲だけが異様に殺伐としており、最終的に3人で全てを仕切ることになって、それでも何人かの後輩が俺を慕ってくれるようになってきたとき。

 

就職一年目で、電車も通っていない山奥の僻地に一人飛ばされ、自分のデスク以外真っ暗な工場の事務所で毎日日付が変わるまで無賃残業していたとき。

 

それでも車の運転がどうしても上達せず、休日はずっと引きこもって3DSと過ごしていたとき。

 

一年目の自分が経理を担当する工場が製品化までこぎつけ、少しだけ仕事が楽しくなってきたところで、3ヶ月後に事業の完全撤退が決まり、敗戦処理と整理のためだけに残業していたとき。

 

本部長らの前で調査報告のプレゼンをした後、一秒も準備していなかったのに「緊張せず自分の言葉で喋れてすごいよ、相当練習したんだね」と言われたとき。

 

世界各国から同業他社が集まる合同研修で、「お前は日本人じゃねーな!」「そのユーモアはどこでも通用するよ」と言ってもらい、解散のあとも4カ国から集まったバカな男4人でヘルシンキで人気ランキング上の店から順にハシゴ酒をし、最後は一番大きなダンスクラブで朝まで踊っていたとき。

 

 

自分はどうやっても普通にはなれないことは、とっくの昔に知っていた。

 

一方で、どうやら自分には代わりにそこそこユニークな能力があって、人の役に立ったり楽しませられる場合もあるらしいことが、だんだんと分かってきた。

 

だから、「変わり者」であることは、俺にとっては決して悪口やコンプレックスではなく、何よりの救いだった。

 

「変なやつ」であることが、俺という人間の、最大の拠り所だった。

 

 

だけど、だからこそずっと、解けない呪いのように、心に付きまとっている言葉がある。実際には誰に言われたわけでもない、自分が自分に言い聞かせている言葉が。

 

「お前はそんなに特別じゃないし、自分が思うほど変なやつじゃない」

 

「お前程度の『変わったやつ』は、世の中に腐るほどいる」

 

そう思われることが、何よりも怖かった。

 

はじめはきっと、両親に「人より少しくらい成績が良くても自慢しないように」「謙虚に、あまり調子に乗って目立とうとしないこと」と言われただけだったのだろう。

 

「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」という言葉がある。

 

実際の俺は、十五の時点で成績も中の中からわずか上くらい、運動はからっきし、恋をするどころか友人も上手く作れず、精神ばかりがアンバランスに大人ぶっている、才子には程遠いただのクソガキだった。

 

それに加えて、「流行に流されてばかりの、その他大勢」に対してだけでなく、「自分は周りと違うと斜に構えているだけで、実際には世の中に溢れているオタク」もまた、いつからか世間の冷笑のターゲットになっていた。

 

世間の流行りものを好きにはなれない。同調圧力を黙ってやり過ごすこともできない。

 

けれど、オタクのムーブメントにも乗れない。

 

何年経っても、どこに移っても、その集団に、世代に、共通の属性に、アイデンティティを感じて安息や連帯感を得ることができない。

 

地元。学校。大学。会社。同期。

 

どこにも帰属意識を持てない。同類・同朋という感覚を持つことができない。

 

 

俺は、決して普通にはなれない。

 

けれど、俺より面白いやつ、個性的なやつが、世の中にはたくさんいる。

 

普通じゃないけど、自慢するほど変わってるわけでもない。

 

そんな半端者が自分の正体だという現実を認めることが、何よりも恐ろしかった。

 

外見にも、資産にも、他のどんな人間的魅力にも乏しい俺が、「変わり者」という拠り所を失えば、そこにはただ無価値なだれかが残るだけだから。

 

それは、灰色という個が消えて、何者でもなくなってしまうということだから。

 

 

他人と違うことを気にするな、なんて次元の話は、四半世紀くらい前にもう通過していた。

 

代わりに、俺を苦しめ続けている呪いの言葉、「お前はそんなに変じゃない」。

 

それに苦しみ続けている俺が、何とかすがっている、現時点で唯一の対症療法。

 

そちらについては、シリーズの次の記事で書こうと思う。

 

ということで、今回はここまで。