灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

書き投げ日記 2/27日曜日

おはようございます。

 

昨夜は昼間寝てたのもあって日付変わるくらいまで起きてしまい、しかもその後一時間半くらい?寝付けなかったので困りました。しんどいとはいえ昼に寝すぎてもダメということで、難しいです。

 

それで朝は6時半に子に叩き起こされましたが、あまりにしんどくて9時まで妻に頼んで寝かせてもらいました。申し訳ないけど本当に身体がキツいので。もっと元気ならといつも思いながら寝てます。

 

一時的に咳が結構出たんで怖かったものの、寝てるうちに収まったので安心。

 

妻に散歩をお願いして朝ごはん、肉まん二つと昨日買ってくれていたパンにいちごと牛乳。最近、朝は食べれるときはしっかり食べるようにしている。ドライマンゴーがたくさん入った硬くてでかいパンがおいしい。妻の気遣いがありがたい。

 

食べたらまた横になってしまってこの記事を書いている。体力の削減といえば聞こえはいいが、さすがに申し訳なさと自分へのいっそうの失望が強まる。身体がまだ休みたがっているのが分かるけど、なんとか頑張らないといけない。だるい。

 

読みたい本やおすすめされて気になってる本は色々あるけど、やっぱり体力を使わなさそうなミステリーやら短編集から触っていくことになりそうだ。未知のジャンルに手を出したり、人の濃密な感情がたっぷり語られているやつに向き合うのは気力がいる。さくさくペースを上げて読むというのも一つの手なのかもしれないが、そういう作品にはそぐわないとも思う。ただ、面白い本をできる限りたくさん読みたいという欲望は日々強まっている。映画を1.5倍速で見るような、情報をたくさん摂取したいというのとは違うと、どこかに向けて言い訳する。

 

ずっと寝ていたい。自分のうつ症状は大部分が身体の方に出るようで、ひたすら寝ていたくなり、動く気がなくなり、極端に疲れやすくなり、疲れが取れなくなる。気分はずっとぼんやり暗いけれど、いわゆるうつというほどでは多分ない。だから、未だにただ体力が足りないだけなのではとか、怠けてるのではという思いが消せないときもある。ただ、動かないんだから仕方ない。許してほしい。

 

動けなくて、大したことをしてないくせに、労ってほしいと思う。頑張っているねと声をかけてほしいと求めている。これも甘えだ。

 

毎日ボロクソに言っているくせにと呆れられそうだが、自宅隔離になってからというもの、妻には随分助けられている。自分が使い物にならない時間が増えてきたので、子の外出に付き合ってくれているのはとてもありがたい。

 

子供が可愛くないわけではない。ただ、身体が動かない。重い。

 

まもなく子が帰宅。

 

最近は日記を書くだけで家族以外とのコミュニケーションを取っていない、というか取る気力もないので、孤独感が募る。家族といて孤独感というのも変な話だけれど、いかに自分が他の人に頼っていたかがわかる。こたえている。

 

普通に会話して子供をかわいがっていると、妻も悪人ではないのに、よくやってくれているのに、と思うときがある。勝手にうつだのと体調を崩して極端なことをしている俺が悪いのだろうか。何も分からなくなってくる。自分がのうのうと生きている正当性がどこにもない気がしてくる。誰かに肯定されたい、生きていることを認められたいと切望している。

 

妻に対してのそんな気持ちも、おむつの世話一つで消えてなくなる。些細なことが気になって仕方ないのはもうこちらも同じだ。少なくとも俺の方には、もう全く人間として好きだとかそういう気持ちはないんだなと実感する。辛くもあるし、楽でもある。

 

両親や義両親が力になってくれて、ママ友やパパ友のコミュニティがあって、友人にも話を聞いてもらったりして、そうして子育てをしている人が心底うらやましい。そんな人がどこにいるのかとは分かっているけど、孤立感が生まれる前からもうずっと続いている。今は隔離だから仕方ないけど、つらい。

 

子供が起きている以上、妻子と同じ部屋にいなければいけない。別の部屋にいてはまた何を言われるか分からないし、そのことだけで怨念がどれだけ積まれるか想像もつかない。同じ部屋にいても子供が一人で遊んでいれば、二人ともスマホを見ているだけのこともある。妻は自分がスマホを見るのは当然の権利だが俺が見ているのは気に食わないようで、どこかにパワハラの連絡をしていないかとか、そういうことが気になるようだ。しているよ。無言の圧力で同じ部屋にいる、そのことだけで精神がどんどん削られていくのを、もうずっと前から続けている。

 

やっぱり最後は離婚しかないのかな、というところに戻ってくる。客観的に見てそれが一番いいというのは理解できるし、みんな俺のことを思って言ってくれるのもありがたいと思う。ただ、まだ子供はとても可愛くて、毎日成長していくのが愛おしくて、彼と離れる気にはどうしてもなれない。それを分かってほしいとも思う。身を引き裂かれる思いというのを自分がこんなに味わうことになるとは思ってもみなかった。

 

週6別居でやっていくというのではダメなのだろうか、とも考える。わからない。

 

存在しない誰かの助けを求めている。世の中の人は他人に依存せず生きろという。強い人たちだなと思う。

 

昼は妻の提案でジョナサンのデリバリーを試してみる。一歳半の幼児食、理想がうす味健康てづくりだとかいうのはもういいので、実際にどのくらいまでOKなのか知りたいな、よそはどんなもんか知りたいな、とか思う。

 

思う、思う、ばかりで単調だけど、リアルタイムで打っている日記なので仕方ない。

 

こういうときに限って、小説のプロモーションやらから流れてきた言葉が気になって、調べて、頭の処理能力をそちらに使ってしまったりする。単純に不快という表現は良くないのだろうけど、理解のできないもの。理解してほしいといわれても、全てを他人と共感できるわけでも、納得できるわけでもないというのも事実だろう。

 

理解してほしい、寛容であってほしいという人は、他人に対してもそうあろうと、誠実であろうとすべきだとも思うけど、誰もが聖人君子のように振る舞えるわけではない。それはつまり、みんな理想建前と本音私利私欲の間のどこかにしか位置できないということに他ならない。

 

生きづらさという言葉を目にすることが多い。生きづらさを全く感じていない人間というはどれだけいるのだろう。我が物顔で傍若無人な振る舞いを365日繰り返している人間も存在する。暴力や搾取を日常にして生きている人間がたくさんいる。それは事実だ。だけど、A組に傲慢な子がいたからA組は全員滅びるべきだ、今のB組に過去のA組の罪を償いながら奉仕し続けるべきだ、みたいなことは、あるべき姿なのだろうか。

 

マスクを剥がしたら口を縫いとめられて喋れなくされていたものも、目の届かない足元にうずくまっていて足蹴にされても気付かれさえしないものも、たくさんいる。

 

よーいどん、で全員の生きづらさをどこまでも解消していって、全員の主張を全て許容していって、そのようにした末にできた社会は、果たしてどんな形なのだろうか。そこに社会は成立しうるのだろうか。そんなことをいつも考えている。

 

自分とあと1人の間でさえ折り合えない俺は、理想の話をする資格はないな、と面白くなってしまう。

 

昼ごはんを食べると眠い。一人でいれば、療養中なのだしと開き直れるのだが、家にいると眠気が怖い。サボることになってしまうので。

 

子供が可愛くてずっと遊んであげたいと思う気持ちと、何もかも投げ出して気が済むまで本を読んでゲームをして寝ていたいと思う気持ちと、どちらもが頭の中にある。

 

子が昼寝したタイミングでこちらも横になって寝る。今日は本当に寝てばかりだ。寝て、少し体力が戻って、また疲れたら寝て、悲しくなってくる。ひたすら時間が経つのを待つ。

 

子供が夕ご飯をスプーンで上手に食べていてすごい。みるみる間に成長していく。一緒にお風呂に入れるのはいつまでかな、とかいうことを最近はよく考える。

 

自分の夕飯はセブンの五目焼きそばと豚しゃぶサラダ。値は張るけどどっちも美味しいし栄養をとった気になれるのでありがたい。

 

今日は本当に寝転がってばかりで妻に負担をかけてしまった。あと一日で何事もなければ乗り切ったことになる。何も起きませんように。