灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

巨大感情お喋り依存人間

休職中なこともあり、最近は何かと自分自身について考えることが多い。

 

特によく考えるのは、自分にとって何が心地良い状態か、また良くない状態か、ということだ。何となくそれについての考えがまとまってきたので、メモがてら自分語りをしようと思う。

 

最初に定義しよう。自分にとって一番心地良い状態は、感情と言語の出力バランスが取れているときだ。

 

単純に言えば、感情が安定していて言語コミュニケーションにも支障がない状態、ということなのだが、それは些か汎用的に過ぎる表現なので、もっと突っ込んで書くと、以下のようなことだ。

 

まず、感情面について。自分の場合は「何かを好きでいる状態」がベストだと分かってきた。対象は人であっても、コンテンツであってもいい。何も四六時中片想いをしていたいというわけではなく、単純に何かを好きでいたり、何かに夢中になっている状態が好ましいということだ。それこそ本でもゲームでも。

 

ここまではそりゃまあ誰にでも当てはまるのだが、さらに詳しく言うと、自分の場合好意の対象が不在な状態が続くと、行き場をなくした感情のエネルギーのようなものが内部で跳ね返り、不完全燃焼・自家中毒を起こす。いわば泳ぎを止めたマグロのようになって、調子を崩すということが分かってきた。

 

おそらく、好意のエネルギー量が大きく、鎮めておけないので、常に何かを全力で好きでいたい・愛していたいという傾向が強いのだろうと思う。なので、そうした対象が急に目の前から消えてしまうときが、最もストレスを感じる瞬間の一つだ。主観的にでも「裏切られた」と感じるようなケースなら、より最悪になる。

 

これがたとえば特定の人物/グループ等を強く「推す」タイプの人であれば、所謂「推しが生きがい」状態でやっていけるとは思うのだが、残念ながら自分は現状そうしたタイプではないので、不定期に新しく好きな対象を作ってやっていくようなスタイルが続いている。

 

感情面の話については、これはもう完全に精神が未熟でワガママな子供のままということなのだろうと思う。文章にしてみるとそれがよく分かる。ただし、とりあえず今日は思うことを羅列するだけなので、反省会はしないでおく。

 

さて、もう一つ。言語について。こちらも詰まるところはシンプルで、常に言語的なアウトプットを続けている状態が自分にとってはベストということだ。これは対面のお喋りでもいいし、オンライン通話でもいいし、Twitterでも、ブログでもいいのだが、少なくとも肉声を発するコミュニケーション(会話・通話)は一定量を維持していないと大きく調子を崩す。早い話が、重度のお喋り依存症なのだ。

 

暇だとつい頭の中であれこれ考えてしまうタチなので、それを言葉にしてアウトプットする(吐き出す)機会がないと、これまた堂々巡りで自家中毒を起こす。何日も何週間も黙々と一人考えごとをできるタイプではなくて、雑談でも何でもいいから人と喋りたい性分ということだ。

 

ただ、厄介なことにその話題も何でもいいというわけではない。というより、仕事と家庭以外の話が望ましい。間違いなく、それら以外の話題をほとんど喋らなくなってから、心の不調が本格化した。その二つから解放されてコミュニケーションを取ることを切実に求めている。

 

単にお喋り依存症だということを述べるのにまあよくも回りくどく話すものだと呆れるが、こちらも「改めて考えてみたら思ったより重症っぽかった」という感じなので、優しい読者の皆様にはどうかご容赦願いたい。

 

「好き」の感情エネルギーを向ける先がちゃんとあり、安定している状態。かつ、家と仕事以外について他人と言語コミュニケーションを取れる=お喋りができる状態。これが、現時点で考える、自分が最も安定していられる条件のようだ。逆に言えば、考えうるベストは「好きなものについて語っているとき」ということになる。だから、そうした機会に付き合ってくる友人(先輩後輩知人フォロワー等全てを含む)は、自分にとって何よりかけがえのない存在だ。最早命綱であり、大いに依存していると言ってもいい。

 

ここ最近では知人とのzoomだけでなく、もくりというアプリでフォロワーと通話する機会にも恵まれ、毎回違った話題で盛り上がり大変楽しい時間を過ごさせてもらっている。いつも喋り倒して申し訳ないと寝る前に反省会を開いているが、現状の自分にとっては間違いなく一番のリハビリであり、心の栄養のようなものを貰えている。月並みな言葉しか出てこないが、いくら感謝してもし足りない。いちいちまた大袈裟な…と思われるかもしれないが、本当にそれくらい助けられているし、ありがたいという気持ちでいっぱいだ。

 

ということで、引き続きもくり・zoomほか通話フレンドを募集中である。もし物好きな方がいらっしゃれば、お暇なときに是非リモートお喋りに付き合っていただければ幸いだ。というか、どうかお願いします!!

 

 

 

組織で働く全ての人への、正義のエール。今野敏「隠蔽捜査」シリーズ1〜3作目感想

竜崎伸也は警察官僚である。(「隠蔽捜査」文庫版表紙裏冒頭より)

 

仮面ライダー、本郷猛は改造人間である。(「仮面ライダー」OPより)

 

だいたい一緒だ。

 

 

 

このところ、活字を読むリハビリも兼ねて、大学時代以来10〜11年ぶりに今野敏の小説を片っ端から再読しはじめた。また、油断するとすぐ内容が薄れてしまうこともあり、読了するごとに簡単な感想は下書きやツイートに書き留めておくようにもしている。

 

というところで、何はともあれ氏の作品を語る上でこれは外せまいと掲題作を読み返したところ、やはり文句なしに大変面白かった。というよりも、就職数年経った今の方がより楽しめたのである。そのことが大変印象的だったため、今回の記事は今野敏「隠蔽捜査」シリーズ1〜3作目の感想(書評)としたい。

 

本作の主人公、竜崎伸也は47歳の警察官僚、いわゆるキャリアである。刑事ドラマでお馴染みの捜査現場などとは無縁な、出世街道まっしぐらのエリートだ。

 

そして、超が二つ三つ付くほどに生真面目な堅物であり、言い換えれば世間ズレした変人だ。アクが強すぎる竜崎語録の数々は枚挙にいとまがない。

 

「東大以外の大学に行く価値はない」「警察官僚は国を守るために生きている」「俺は国を守り、妻は家を守る」……。およそ21世紀の主人公の台詞とは思えない。なお、言うまでもないことだがこれらはあくまで本作の主人公の言葉であり、極端すぎて旧時代的に思える信条の数々も作者の思想を代弁しているわけでは決してないので、その点はご安心いただきたい。警察小説というジャンルに限っても多彩な人物を主人公に据えて世に送り出しているのが今野敏であり、その中には竜崎と真逆のタイプの主人公も存在している。

 

話を戻そう。竜崎は常にキャリアとして高すぎるほどに高い職務意識を持っており、何事にも原理原則を第一に考えて問題に正面から向き合う。この男、とにかく万事が完璧すぎるほどのTHE・エリートという感じで、とても共感なんてできるキャラクター造形ではない。これは断言してもいいが、第一作を初めて読んでいきなり冒頭から竜崎を好きになれる人は、そうそういないだろう。それくらいに物語の冒頭から「嫌なやつ」感が徹底しているのだ。

 

しかし、読み進めていくうちに読者はまず、竜崎の単なる生真面目を超えたプロフェッショナルとしての精神、合理性を貫く意志が生半可ではないことを知る。竜崎が出世至上主義なのは、偉そうにふんぞり返りたいからではない。より大きな裁量と権限を持って、高度に国家へ奉仕できるからだ。だから、官僚同士の醜い足の引っ張り合いや派閥争いなどの権謀術数には一切興味はない。自分の面子や権威などにこだわることはなく、それが最良だと思えば階級が低い現場の人間に指揮権を委ねることもする。官僚ではあるが、その姿勢は上の命令に従ってお役所仕事をするだけの役人や、保身と安定だけを求めるお偉いさんとは対極的な存在なのだ。

 

そんな竜崎は、警察庁長官官房総務課にてマスコミ対策に日々その敏腕を発揮していたが、ある日警察組織の威信を根底から揺るがす大事件が発生。そして、竜崎は事件を巡る組織内の「隠蔽」計画を目の当たりにすることとなる。真実の隠蔽など、警察として絶対にあるまじき行為だ。竜崎は己の信念を貫き、警察の威信を守るため、計画に断固NOを突きつけんとする。しかし同時に、家庭ではなんと浪人生の息子によるとある犯罪が発覚。これが明らかになれば、不祥事の監督責任を問われ処分は免れない。公私両面で未曽有の大問題に直面した竜崎の選択と決断とは……。というのが、第一作「隠蔽捜査」のあらすじである。

 

竜崎は常に合理性を至上のものと考えるため、警察の硬直的な縦割り組織や上位下達の慣習といった有形無形の岩盤にも、真っ向からぶつかっていく。しかし、そんな彼の論理を貫くには巨大で複雑すぎる難問が、次々と目の前に立ちはだかることとなる。竜崎でさえも、そうした戦いにおいては答えの見えない暗闇の中でもがき、悩み、苦しむ。その姿を見て、読者は気付くのだ。常に高潔な超人のように描かれていた彼も、一人の人間であり、だからこそ弛まぬ努力と不屈の精神によって己の理想に少しでも近づこうとしているのだ、ということに。そして、その愚直なまでの懸命さと捨て身で戦う姿を見るうちに、我々は「嫌味なエリート官僚」にしか見えなかったはずの竜崎を、果敢に戦うヒーローとして応援したくなっていくのである。これが、本シリーズが大人気を博し、数々の賞に輝くこととなった、そのからくりだ。竜崎伸也の一風変わったどころではない尖りっぷりと、読み進めていくうちにそれがヒロイックに逆転していく面白さは、間違いなく唯一無二の魅力である。未読の方は是非、この奇妙なカタルシスを味わってほしい。

 

なお、以下に続く文章は続編の紹介という都合上、若干ながら一作目の結末のネタバレを含むので、どうしても避けたい方はここで記事を閉じていただければと思う。(文庫本の表紙裏のあらすじレベルの情報ではあるが)

 

物語を追うにつれて、堅物で変人のエリート竜崎から次第に目が離せなくなり、そして応援したくなっていくという流れが本シリーズの肝であることは、上で述べた。だからこそここでは、二作目以降の展開についてもあえて具体的に触れていきたい。

 

第一作の結末にて、竜崎は降格人事を受け、警察庁長官官房からいち所轄に過ぎない大森警察署の署長へと異動となる。分かりやすく言えば、左遷だ。そう、二作目以降の竜崎は、警察署長として新たな事件や困難に立ち向かうことになるのである。

 

二作目「果断 隠蔽捜査2」では、大森署管内で立てこもり事件が発生。竜崎は前線本部を仕切ることとなるが、現場では交渉のプロであるSITと強行突入を専門とするSATが対立、更には事件後に巻き起こった波紋とその責任の所在など、またしても頭が痛くなるような展開が彼を待ち受ける。加えて、事実上の左遷によってやってきたキャリアの新署長が、大森署の部下たちの目にはどう映るのか?という問題も。本人は「業務さえ円滑であれば、部下と親しくなる必要など全くない」といつも通りの姿勢であるが……。

 

という具合なのだが、なぜ「2」およびそれ以降が面白いかといえばそれはズバリ、一作目からの読者は既に竜崎を好きになっているから!というのが最大のポイントだ。初見ではドン引き間違いなしの竜崎節も、ファンになった目からは「これこれ!こうでなくっちゃ!」と喜ぶ要素になるし、厄介なPTAや偉そうな管理官とのバトルでは、合理性を武器に相手を圧倒する竜崎の姿が実に痛快なのだ。

 

加えて言えば、二作目はその物語の展開が特殊かつ巧みなことにも言及したい。まずは本編開始後、かなり早々にメインとなる事件が発生する。そして、物語は事件そのものだけでなく、その事後処理の問題に進み、更にはその先に潜む思わぬ展開へと転がっていく。単に大事件を解決するだけではなく、その後の話がもう一つのメインとなっているような構造だ。

 

しかしながら、一作目から一貫した特徴として、本編は全て時系列順に書かれているため、無闇に現在と過去を行き来して複雑になるようなことはなく、実に読みやすく構成されている。その点もまた特筆すべきだろう。総合すると「果断 隠蔽捜査2」の見所は、①左遷された竜崎の再スタート。一作目でファンになってしまった読者は、いよいよ応援に熱が入る。②緊迫の立てこもり事件とその先で待ち受ける困難に対する、竜崎の「決断」を描く巧みなストーリー展開。と、以上の2点にまとめられるだろう。

 

さて、本記事では最後に、シリーズ三作目「疑心 隠蔽捜査3」についても触れたい。今作のコアとなる要素は二つ。一つ目は、竜崎が挑む新たな事案である、米国大統領来日の警備だ。竜崎はいち署長の身でありながら、方面警備本部長という大役を特例的に任されることとなる。彼の担当区間には、大統領の航空機を迎える羽田空港が含まれており、それだけでも責任重大なのだが、なんと大統領暗殺計画の情報が入り、来日を前にして緊張はマックスに。そして計画阻止のため前乗りしてきた米国シークレットサービスは、大統領の安全を確保するために空港の即時全面閉鎖を要求してくる。その徹底した姿勢に共感を示しつつも、影響甚大のため封鎖は認められないという上の命令との板挟みに、竜崎は苦しめられることになるのだ。

 

そして二つ目は、なんと「竜崎の恋煩い」である。こちらについては、あえてその詳細は省くが、今まで「理性こそが人間を人間たらしめる」「四六時中発情するなど獣と変わりない」などと世の恋愛至上主義を断じていたはずの竜崎が、自分でもコントロールできないほどの感情の奔流に苦しみ悶える様は、まるで思春期の男子学生。本人はクソ真面目に悩み倒すのだが、この世の終わりでもあるかのようなその様はそりゃもう必見だ。三作目は、これら公=仕事と私=感情の双方で立ちはだかる難問に対して、竜崎がどう「覚悟」を決めて乗り越えていくのか、それが最も大きな見所となっている。

 

ここからはさらに個人的な感想になるが、大学生以来10年ぶりに本シリーズの一作目〜三作目を再読して、一番印象が変わったのがこの三作目であった。といっても、恋に悩む竜崎の部分ではない。もう一つの、警備責任者として立ち回る描写である。これはもう完全に個人的な理由なのだが、竜崎とシークレットサービスバチバチにぶつかるシーンが他人事とは思えず、前のめりで共感して一気読みしてしまった。弁が立って厄介な外国人との交渉を上司に押し付けられ、内心は合理的で単純明快な向こうの姿勢に共感しつつも、組織の都合上反対せざるを得ない…竜崎、わかるよ…超めんどいよな…。と勝手に共感してしまった。あいつらに対して、努力するとかいう言葉は無意味だもんな…。

 

と、これはたまたま自分の仕事経験とリンクした例であるが、先述した通りに本作は警察小説でありながら、実に様々な場面での主人公の選択、対応を描いており、その中には組織で働く人なら自分の経験とつい重ね合わせてしまうようなシーンもたくさんある。であるからこそ、自分も学生時代よりずっと今回の再読を楽しめたし、また勇気をもらうことにもなった。

 

竜崎が直面する問題は、規模の大小や深刻さこそ劇的ではあるが、その度合いを別にすれば、誰もが共感できるものでもある。仕事のトラブルと家庭問題の板挟み、厄介な上司からの責任のなすりつけ、異なる部署同士の軋轢、何を考えているか分からない年上の部下、屁理屈を並べてがなるクレーマー、規則に従わない現場のひねくれ者、職場での許されない片想い、などなど……。言い換えれば、本作は警察組織という我々から遠い世界を舞台に選び、主人公にキャリア官僚というこれまた遠い存在を据えながらも、その実は広く共感を呼びやすい「サラリーマン小説」のような側面も持っているのだ。

 

しかし、当然ながらただ共感できるだけではない。竜崎がヒーロー足りうるのは、そうした問題の数々にぶつかった時、絶対にぶれない「正しさ」をもって真正面から戦うからである。47歳の竜崎は、その腕っぷしが並外れて強いわけでもなければ、名探偵のように天才的な頭脳を持って事件を解決するわけでもない。彼の最大の武器は、どんな場面でも原理原則を大切にし、正しい決断とそのための覚悟をためらわない、誇り高い精神なのである。彼は殊更に正義という言葉を用いることこそないが、そのあり方はまさしく正義の体現だ。

 

普通にサラリーマンとして働いているだけで、悪の秘密結社相手に大立ち回りをすることはまず有り得ないし、 組織の不正を暴いたり陰謀を打ち砕く機会も、基本的には存在しないだろう。しかし、「決断と覚悟」ならどうか。日々の仕事で、あるいは生活の中で、誰もが何かを選び、決めている。そうしたとき、我々はどのような尺度を持って物事にあたっているだろうか。衝突や軋轢は誰しも嫌なものだ。それゆえに、なあなあで物事を済ませたり、合理的でなくとも波風を立てない方を選んだりといったことはないだろうか。そうしておいて、これが大人の対応だ、などと自らに言い訳をしていないだろうか。我が身かわいさに、つい保険や保身に走ってはいないだろうか。

 

竜崎はそうではない。たとえ上司と対立しようとも、自らの立場が危うくなろうとも、常に正しい道を選び、そのために覚悟を決める。そうして周囲に、自らの理想とする正しさを示すのだ。だからこそ、彼は作中の人々を、そして我々を惹きつける。少しでも、彼のように正しくありたいと思わせる。竜崎はその振る舞いが仇となり、組織内で恨みや妬みを買って敵ができることも多いが、同時に彼のところには、その正しさに胸を打たれた人々が、立場を問わず真の仲間となって集っていくのである。

 

また、仕事ということで加えて言えば、特に二作目以降では、竜崎がワンマンで何かを解決することは少ないのも特徴的だ。むしろ事態が大きく動くときには、警察の各部署が連携するシーンが印象的に描かれている。それらは、性質の違いからいつもはそれぞれ対立していたり、いがみ合ったりしていることが語られているが、一度動き出すと巨大な機械の駆動系が噛み合って動き出すような力強い威容を感じさせる。そして、自らの「決断と覚悟」を示すことで、警察組織という硬直的な機械巨人を的確に動かすのが、竜崎のキャリアとしての仕事なのだ。その様子は、いわば管理職のカタルシスと言ってもいいだろう。この点も、本作をサラリーマン小説と呼ぶ理由だ。

 

この物語を通じて、作者・今野敏が投げかけたメッセージを、自分は11年越しにこう受け取った。我々一般市民は、ヒーローとして超人パワーを発揮することや、難事件を解決することはできないかもしれない。しかし、目の前に選択を強いられたとき、少しでも「正しい道」を選び、決断し、そのために覚悟を決めることはできる。そして、苦悩の果てに正しい行いを選んだ者のもとにはきっと、その光に照らされた友が、仲間が集まり、力を貸してくれるのだ、と。

 

組織の論理や世俗の慣習、「大人のやり方」にまみれる中で、善悪の基準を揺さぶられ、何が本当に正しいことなのかの答えを出せず、心身をすり減らしながら日々働く人へ。「隠蔽捜査」シリーズは、そんなあなたたちへ向けて書かれた、今野敏による渾身のエールである。

 

 

 

闇夜にきらめく超闘士

25年前のあの頃。僕にとっての一番新しくて一番カッコいいウルトラマンは、鎧をまとい、黄金に輝いていた。

 

 

こんにちは、灰色です。何かいいブログのネタがないかなと思っていたところ、「今週のお題」なるものがあることを知りまして、今回のお題は「一気読みした漫画」だとのこと。

 

ちょうど最近再読ですが一気読みした漫画があったので、これ幸いということで今回はその紹介記事ということでやっていきます。

 

と、ここまで書いておいて何なのですが、この「お題」は4週間も前のやつでした。記事を寝かせてる間にお題が入れ替わったんですね。そうすると本文中にも入れない方が適切な気もするのですが、折角だしお蔵入りさせるのも悲しいので、ここに加筆して公開します。

 

ところで皆さん、ダイの大冒険ってご存知でしょうか?令和になってまさかの再アニメ化、しかも原作最後まで制作放送予定ということで、今再び大盛り上がりですよね。自分も遅ればせながら追っているのですが、やっぱり面白い。世間ではクロコダイン再評価の流れとかもあるようで、喜ばしい限りです。

 

今日はそんなダイの大冒険の原作漫画をご紹介……するわけではありません。それはそれで書きがいがあると思うのですが、あまりにもハードルが高い上にいくらでも他にやってる人がいると思うので……。(ちなみにこれを書いているとき、フレイザードの手柄を求める名台詞が横で流れています)

 

また同作の原作者といえば、そう。三条陸先生ですよね。他にも仮面ライダーWや獣電戦隊キョウリュウジャーといった名作、そして忘れてはいけない超傑作ロボットアニメ・ガイキング LEGEND OF DAIKUMARYUなどの原作者・脚本として、熱い王道の展開を描かれてきたお方です。

 

そんな同氏がかつて、別名義で原作を務められた作品があるのをご存知でしょうか?しかもそれは……SD頭身のウルトラマンが、聖闘士星矢のように輝く鎧をまとい、ドラゴンボールのような超インフレ格闘バトルを繰り広げるという、とんでもない全部盛り作品だったことを……。

 

というわけで、前置きが長くなりましたが、本日ご紹介する作品は「ウルトラマン超闘士激伝」です!

 

尚、「あらすじとキャラ紹介」から所々で若干のネタバレを含みます。十中八九どなたも気にされないかとは思いますが、もし展開を知ってしまうのを回避したい方はご承知おきください。

 

 

【作品概要】

元々はバンダイのカードダス用企画で、当時大ヒットしていた「騎士ガンダム」に次ぐSDキャラの企画を、というところからスタートしたとのこと。当初から「鎧を着たウルトラマンドラゴンボールのように激しくバトルする」という方向性は決められていたのだとか。三条陸先生は漫画原作だけでなく企画そのものを担われており、カードダス全てのデザインラフまで描かれていたというのだから凄まじい。

 

商品展開としては、カードダスこそ長く続かなかったものの、同時に打ち出したガシャポンフィギュアがそのクオリティとラインナップの豊富さから人気を博し、第17弾まで続くほどの大ヒット。鎧を着たウルトラマンガシャポンフィギュア、30代以上では記憶にある方もいらっしゃるのではないだろうか。その他にはゲームソフト、OVA(後述)なども発売されている。

 

漫画そのものは1993年~1997年、コミックボンボン誌上にて連載されており、ほぼガシャポンのシリーズと同じだけ続いた。更に、時を経て復刊・完全版が刊行され、さらに2014年にはウルトラマンメビウスを主人公とした新作シリーズ「新章」が開始・コミックス5巻分にわたり連載されるまでに至った。

 

当時はウルトラマンのテレビシリーズ放送が途切れた時期であり、ソフビなどの玩具は引き続き人気商品だった一方、ウルトラにハマってもストーリーに触れるには海外製のグレートやパワードをレンタルビデオなどで観る程度が関の山だった。そのため、ガシャポン人気と相まって「ウルトラマンといえば激伝」というピンポイントな世代が生まれたといわれている。かくいう自分も冒頭の通り、その一人だった。(もちろん直後に放送開始された「ティガ」~「ダイナ」までは全話観たけど)

 

・「闘士」と「超闘士」

「闘士」とは……「きたえぬかれた武道の達人が武装した姿」(完全版1巻より・ウルトラマン談)。「とうし」ではなく「ファイター」と読む。

 

心身を極限まで鍛錬していることが絶対条件であり、鎧をつけただけでは単なる「武装」に過ぎないと作中でも語られている。(「武装ゴモラ」が登場した際のやり取りが上記である)また、闘士専用の鎧は「装鉄鋼」(メタルブレスト)と呼ばれる。

 

「超闘士」とは……「はるかなる太古よりこの宇宙につたわる 伝説の最強戦士」であり、「その拳は惑星をもくだき その輝きは暗黒の宇宙すら光にみたす」と言われている。(完全版1巻より・ウルトラの父談)こちらの読みは「ちょうとうし」でいい。(スーパーファイターではない)

 

早い話がこの作品における超サイヤ人であるが、単に超絶強い戦士というよりは、ウルトラマン世界らしく「銀河の救世主」としての意味合いが強い。しかし……?

 

 

・各章あらすじと主要人物紹介

 

①メフィラス大魔王編…ウルトラ戦士、怪獣、宇宙人、人間の垣根を越えて銀河で最強の闘士を決めるため、「銀河最強武闘会」が開催される!(名前に突っ込んではいけない)かつて宇宙恐竜ゼットンに敗れたウルトラマンも帰還し、因縁の再戦に挑まんと闘志を燃やす。しかし、その裏にはある邪悪な陰謀が渦巻いており……?

 

見所…開始から高すぎるテンションで突き進むストーリー!ウルトラマンvsゼットンの再戦!鋼魔四天王と生身のウルトラ戦士との絶望的な戦力差、それを覆すウルトラ魂!いきなりの総力戦だ、ベタだけどとにかく熱い展開が続くぞ!

 

ウルトラマン…主人公。作中ぶっちぎりNo.1の実力者にして非の打ちどころのない人格者。本編前の時間軸でゼットンに負けているものの、今作では死亡してはおらず、修行を積んで「闘士」となった。

 

ウルトラセブン…数多い今作の不遇ウルトラ戦士の一人。苦労人。特にクセのないキャラで、1.5軍くらいの位置だが、ウルトラマンとの実力差は終始極めて大きいまま。が、さすがにウルトラ戦士No.2の位置づけだけあって出番はそこそこあるぞ。

 

ウルトラマンエース…今作のコメディ担当。これと「ウルトラ忍法帖」の無職エースのせいでギャグキャラの印象が未だに抜けないのは怒られても仕方ないと思う。実力はセブンにやや劣るくらい?の1.5軍だが、キャラが奏功してかとにかく出番がは多い。

 

ウルトラマンジャック…こいつから二軍。クールキャラだが不遇。エースより下にある通り、出番も少ない。一応大魔王編では見せ場あり。その後は……。

 

ウルトラマンタロウ孫悟飯。それ以上適切な言葉が見つからない。大魔王編では二軍ポジションだが、ピンチのときにその凄まじい潜在能力の片鱗を見せつける。幼年期悟飯が怒って突進するアレだ!

 

ウルトラマングレート…ちょいワルキャラ。ウルトラ兄弟が「銀河警備隊」に所属して平和を守っている一方、勧誘を断って独自に動いている。実力的にはジャックと同等かやや劣る程度だと思われるが、連載開始当初最新のウルトラマンだったからか、序盤にデカい見せ場がある。

 

ウルトラマンレオ…三軍。肝心なときにいないので出番もかなり少なく、旧シリーズ最後までロクに見せ場がない。個人的には本作一番の不遇だと思う。兄がこれなのだからアストラは言うに及ばずというかキャラ紹介に載せるまでもない。

 

ウルトラマン80…三軍。大魔王編では援軍に来てくれるが空気。レオに比べると終盤で一回見せ場があるだけ不遇度合いがマシ。それだけ。

 

ウルトラマンジョーニアス…ザ・ウルトラマンからの出演。三軍。80の項目が全部そのまま当てはまる。それだけ。

 

ゾフィー…審判。あまりに不遇すぎて説明することが何もない。それくらい空気。

 

メフィラス大魔王…本作のもう一人の主人公。闘士ウルトラマンのライバルであり、キャラクターは分かりやすく言うとピッコロ+ベジータだけど、それだけじゃない味がある。銀河征服の野望のため、大会後にウルトラマンが不在となった隙にウルトラの星侵略へ動く。個人的に一番好きなキャラ。メフィラスだけで記事一本書けるくらい好き。

 

ゼットン…ご存知宇宙恐竜。傲岸不遜な性格ながら、前述の通りウルトラマンを過去に倒したこともある程の実力者。大会でも他のウルトラ戦士を寄せ付けない圧倒的強さで再戦まで勝ち上がる。ウルトラマンとの再戦ではなんと聖戦士ダンバインよろしく「ハイパー化」まで披露、ウルトラマンサーガのハイパーゼットンに先駆けること19年!「ゼェ~ットトト!」というキン肉マンの超人かONE PIECEの海賊かみたいな笑い方が記憶に残る。

 

鋼魔四天王…軍団を持たないメフィラス大魔王の唯一の配下で、全員が装鉄鋼をまとう闘士。火力が売りのバルタン星人、怪力のケムール人(意外!)、棒術を用いるザラブ星人、スピードに優れるダダの4人で構成される。ナッパ+ギニュー特選隊のような立ち位置なのだが、登場時点でのウルトラ戦士との実力差・絶望感もそれらに負けず劣らずの大きさで、強烈な印象を残した。本作には本家ウルトラシリーズへのオマージュが非常に多く盛り込まれているが、その代表とも言える四天王の人選は本家ウルトラマンの該当回を知っている人からするとニヤリとしてしまうもの。

 

 

ヤプール大戦編…メフィラス大魔王の襲撃から時を経て、謎のフィクサーの資金援助により第2回銀河最強武闘会が開催された!しかし、またしてもその裏には巨大な陰謀が渦巻いており…?そして死闘の最中、ついに伝説の戦士が降臨する!

 

見所…キャラクターたちの成長!強敵にはまさかの人選!ついに現れる超闘士、そして更なる絶望!指数関数的に進む超インフレ!

 

ウルトラマン…引き続き最強のお方。今シリーズ前半ではついに伝説の超闘士に覚醒するが……

 

ウルトラマンタロウヤプール編後半の主役。メフィラス大魔王に弟子入りし、完全なピッコロ-悟飯関係に。修行の中でタロウもまたその潜在能力を開花させるが…?

 

メフィラス大魔王…ウルトラマンに敗れて以降、銀河征服の野心はなりを潜め、徐々に正々堂々の戦いを望む武人としての心に目覚めるように。まんまピッコロ・ベジータの改心と言えばそこまでなのだが、それだけに留まらないメフィラスの心情描写もヤプール編の見所の一つ。

 

ウルトラセブンヤプール編後半でウルトラ戦士のリーダーに抜擢され、さすがにそのポジション通りに見せ場も貰える……が、同時期に覚醒したタロウの印象があまりに強すぎる。不憫。

 

ウルトラマンエースヤプールといえばこの人……なのだが、なんとかつて(「エース」本編で)倒したヤプールは数多くいるヤプール人のうちの三下に過ぎなかったという設定が追加されてしまい、本作での決着はタロウに譲ることに。不憫すぎるが、さすがにシリーズ中の出番や見せ場は多い。しかし一番の見せ場はダイジェストで台詞中に語られるだけだった。やっぱり不憫。

 

エースキラー…エースのライバルキャラとして第二回大会から登場。原作通りゾフィーのM87光線など強力な技を使いこなし、実力もエースと同等以上……なのだが、激伝時空のエースに合わせて作られたために頭の出来も同等の三枚目キャラとなってしまった。不憫。でも不憫な目にあってもめげず復活したりする。

 

ゼットン…こいつの再登場シーンは激伝屈指のカッコよさなので必見。インフレにそこそこついていってて偉い。が、次シリーズからは出番がなくなる。

 

ヤプール…シリーズの大ボス。後半戦でついに正体を現し、大軍団で全宇宙の支配を狙う。正体を隠している時期、変身の流れとかはフリーザそのものだが、実は宇宙侵略にも背景があり、その決着のつけ方は激伝ならでは、タロウならではのものでなかなかお気に入り。

 

マザロン人…シリーズ前半の大ボスとしてまさかの大抜擢。強いて言うならDBZのキャラではリクームに近いか?あれを一万倍悪辣にして十万倍強くした感じでとにかくインパクト絶大。挙句ハイパー化もする。激伝アレンジの極北の一人。

 

スフィンクスヤプール編後半の決戦への案内人。あくまで自分は傍観者だと語り、真意を掴ませない振る舞いをする。こういうキャラ好き。

 

 

③ゴーデス・魔神編…ヤプール大戦から時は流れ、第3回銀河最強武闘会が開幕する!しかし、その影にはまたまた邪悪な陰謀が渦巻いていた!宇宙を滅ぼさんとする最強最大最悪の敵。君は今、伝説を超えた銀河の奇跡を目撃する!!

 

見所…宇宙規模のインフレと激伝アレンジの真骨頂、ここに極まる!!加えて、今まであまり描かれなかったウルトラマンが悩み葛藤する姿も描かれるなど、人物描写としても旧シリーズの集大成にふさわしい熱量だ!

 

ウルトラマン…見事復活を遂げた我らの最強男。人工的にウルトラホーンの機能を持たせたウルトラクラウンにより超闘士のパワーを制御することに成功した。しかし、それでも魔神の超絶パワーには力及ばず…?

 

ウルトラマンタロウ…2人目の超闘士。前シリーズ後半で八面六臂の大活躍をした反動で今作では不遇枠に。具体的には魔人ブウ編の悟飯(アルティメットにならない)。

 

ウルトラマンパワード…連載当時の最新ウルトラマンがついに登場!独自の流派を率いる指導者で、激伝ならではの解釈によって描かれた個性的なスタイルで戦う。グレートとは昔馴染みだった。ちなみにパワード怪獣、たとえばパワードレッドキングなどはオリジナルのレッドキングらとは「同族」という扱いに。

 

ウルトラマングレート…因縁の敵との戦いのはずが、ウルトラ不遇枠になってしまった人。

 

ゴーデス…宇宙の悪魔と呼ばれる邪悪存在。ゴーデス細胞をばら撒いてあらゆる生物を操れる。ロックマンXのシグマウィルスみたいな感じだ。それだけに留まらず、宇宙を支配するために伝説の魔神の復活を目論んでおり……。

 

ゴーデス五人衆…マイナー怪獣・宇宙人が邪鉄鋼(エビルブレスト)に操られた姿。鋼魔四天王と比べるとキャラが薄いまま全滅した。

 

鋼魔四天王…なんと再登場。当時のガシャポンにもラインナップされていた。こいつらなんか話にならないほど戦いはインフレしているはずなのだが、今回も結構目立つ。

 

シラリー・コダラー…天の魔神シラリーと海の魔神コダラー。宇宙を滅ぼす伝説の存在で、その圧倒的な戦闘力は単体でも超闘士ウルトラマンが手も足も出ないほど。元ネタはウルトラマングレートの最後の敵なので、パワードのパワードゼットンを除けば当時のウルトラシリーズで最新のラスボスということになる納得のチョイス。さらにさらに…?

 

超魔神シーダ…なんと二体の魔神が合体パワーアップしてしまった姿。その戦闘力は絶望そのもの。もちろんこちらは激伝オリジナル。ガシャポンフィギュアもオリジナルとは別に2体作られ、合体もできた。個人的に激伝アレンジの最高傑作にして、現在まで続く合体怪獣の歴史にその名を刻まれるべき存在だと思う。

 

 

OVA・彗星戦神ツイフォン編…宇宙の彼方から強者を求める破壊神が現れた!超闘士をも圧倒するパワー。死闘の末に散った誇り高き命に応え、銀河の奇跡は再び降臨する!

 

見所…OVAなのに本編のストーリーに直接繋がるという無法!そしてそこでメインキャラが死亡するというスーパー無法!!当時未就学の自分でもパラレルだと思ってたぞ!!なんと噂の円谷サブスクにあるらしい。君も見よう!

 

彗星戦神ツイフォン…彗星の姿で宇宙を彷徨い、行く手の惑星を滅ぼし尽くす破壊神。超闘士も相手にならない超絶戦闘力を誇る。

 

 

⑤エンペラ星人編…新世代の戦士たち、そして新たなる強大な敵!超闘士たちの戦いはこれからだ!

 

見所…最新世代のウルトラ戦士(当時)、ネオスと21が堂々メインなのは激伝だけ!しかし残念ながら連載終了により、ラスボスとの戦いはお預けに…。

 

ウルトラマンネオス…新世代の戦士で天才かつ優等生タイプのエリート。

 

ウルトラセブン21…ネオスの同期で努力家タイプの熱血漢。しかし、その心の隙を敵に利用されてしまい……。

 

 

⑥新章・メビウス編…第4回銀河最強武闘会に出場するウルトラマンメビウス!そして暗躍するのはあの「皇帝」。ウルトラ兄弟の名の下に今、超闘士激伝・堂々完結の時!!

 

見所…連載終了から18年の時を経て奇跡の完全復活!!オマージュもファンサービスも全開、かつての不遇キャラだって活躍!!ウルトラマン超闘士激伝、四半世紀越しの総決算を刮目して見よ!!

 

ウルトラマンメビウス…新章の主人公。タロウの弟子で、フォームチェンジによる高い戦闘力と底知れない潜在能力を持つ。

 

ウルトラマンネオス…天才優等生戦士。激伝の若手といえばこいつらということで無事続投。前半にでかい見せ場もあるが、後半はウルトラ兄弟がメインになったことで控えめに。

 

ウルトラセブン21…熱血努力家戦士。ネオス同様続投するが、今回もいきなり不遇な目に遭うかわいそうなやつ。一応、後半ででかい見せ場はある。直後あるキャラのインパクトに完全に喰われるが……。

 

ウルトラマンコスモス…慈愛の戦士。が、ある言葉を言われるとキレて暴虐のコロナモードになってしまうという問題児でもある。

 

ウルトラマン…ずっと最強のお人。が、今回は仇敵の策謀によって囚われの姫ポジションに。

 

ウルトラセブン…元祖不遇。ところどころで存在感を発揮するものの、今度はゾフィーに食われ気味になってしまった。不遇だ。

 

ゾフィー…93年の連載開始最初期からずっと空気だったレフェリー担当がまさかの一軍登板で大活躍。とにかく情けないイメージしかなかったのがめちゃくちゃ強くなった。活躍回の表紙にバードン・ヒッポリト星人・タイラントが描かれていたのにはあったかい悪意を感じた。

 

ウルトラマンタロウ…超闘士として新章でもその力を存分に振るう。人間関係の描写が一番多く、メビウスとの師弟関係もだが、それ以上にあの人とのあれこれが旧来のファンとしては泣けまくった。

 

ウルトラマンエース…永遠のギャグキャラ。

 

ウルトラマンジャック…かなり強くなったんだけど、最後まで空気だったお人。ウルトラ兄弟では一番の不遇に。

 

ウルトラマンレオ・アストラ兄弟…旧シリーズで一度もまともな出番がなかった最不遇兄弟。今作も奇襲にあったり散々……だったが、ウルトラ兄弟の一員としてついについに見せ場が来た!!祝・不遇脱却!

 

ウルトラマン80…僕らのウルトラマン先生。新キャラとの兼ね合いで見せ場がなくなった人。あんまりだ。しかし、最後の最後にはとても80らしいシーンがあり、最終的に独自のポジションに収まる。

 

ウルトラマングレート…顔は出したものの一切まともな見せ場がなく決戦選抜からも漏れた。おめでとう、繰り上がりで最不遇は君に決定だ。

 

ガルタン大王…まさかの人選パート2。80の弟子として大会でダークホース的活躍を見せるが、ヒール顔して実はウルトラ兄弟の大ファン。決戦には行かないものの、美味しいキャラで出番多し。

 

グローザム…大会出場者にして皇帝の刺客その1。不死身のグローザムの異名を取り、セブン21をダイジェストKOしてしまった。とにかく出番が多い。

 

デスレム…出場者兼刺客その2。策士タイプ。こいつも序盤から出ずっぱり、魔獣化したりして新章を支えた。

 

ヤプール…大戦で出てきたヤプール王とは別人で、かつてエースが倒した第一次地球侵攻軍の大将。怨念の塊で、憎悪パワーにより戦いを挑んでくる。

 

???…メビウス本編を観ている人なら予想がつくであろうあの宇宙人。死亡していたはずだが……。

 

エンペラ星人…皇帝と呼ばれる宇宙最強の男。かつて(連載終了〜新章開始前の間に)ウルトラマンと互角の戦いの末に消滅したと思われたが、ウルトラマンの体内に魂の一部を埋め込むことで生き延びており、復活。ラスボスを務める。ちなみにもともと激伝デザイン(初出)とメビウスでのデザインで見た目が違ったところ、作中で見事に説明をつけており、感心した。

 

【全編再読しての感想】

ありがとう、三条陸もとい瑳川竜。ありがとう。栗原仁。それしか言葉が見つからない。

 

自分が初めて激伝に触れたのは、まだ幼稚園児の頃だ。ウルトラマンや怪獣が鎧を着てファイティングポーズを取っている、その格好良さに当時の自分は夢中になった。しかし、自分が激伝の存在を知ったとき、ガシャポンシリーズは既に終了が近づいており、親に頼んで町中を探し回っても、手に入ったのは限定的だった。

 

同時に漫画の存在を知り、書店や古本屋で単行本も探しに探した。順番はバラバラながら少しずつ見つけ、最終的に6巻全てを入手したものの、物語はヤプール編までで終わっており、その先の物語は未収録だった。

 

たまたま出かけた先のデパートか何かで激伝のOVAを見つけ、祖母に買ってもらって狂喜しながら再生した。アニメで動く闘士ウルトラマンたちに夢中になり、まさかの展開に唖然とし、何度も何度も繰り返し観た。

 

小学校に上がるときから、コミックボンボンを買ってもらえるようになった。自分は飛びついて真っ先に激伝のページをめくったが、買い始めたその号を最後に、連載は終了してしまった。

 

その後、ファンの復刊希望が叶って旧シリーズが未収録分も含めた完全版として復刊されたことを知ったが、今に至るまで購入はしていなかった。

 

2014年に、なんと激伝が連載再開された。奇跡の展開に驚き、大喜びしたものの、終盤に差し掛かったあたりで連載を追いそびれてしまい、そのままリアルタイムでの完結は見届けられなかった。

 

今、ようやく、自分の中のウルトラマン超闘士激伝が完結した。

 

かつて連載が終わってからも25年もの時が経った。幼稚園にガシャポンフィギュアを持ち込んで遊んでいた子供は、今や一児の父になってしまった。

 

それでも、久しぶりに読む激伝は、あの頃のままだった。ずっと読みたかった魔神編も読めた。最終決戦はちょっとあっさりだったけど、それでもずっと心残りだったのがついにという感慨深さは並大抵ではなかった。

 

そして、何より新章が最高だった。原作者・漫画担当両氏が本当に描きたかったものを存分に描いているというエネルギーが伝わってきた。自分がずっと見たかったものを、25年の時を経て、最高の形で見せてくれた。新章ラストの感動は本当に筆舌に尽くしがたく、あるキャラとシンクロしたかのように涙が止まらなかった。

 

間違いなく、僕にとってのウルトラマン超闘士激伝は、名作だった。

 

そりゃ、コンセプトからしてモロにドラゴンボールだし聖闘士星矢だし、低学年向け雑誌での連載という都合もあって、盛り上がるシーンの描写があっさり気味なときもあるし、お世辞にも今の漫画みたいに全部のキャラが活躍するとは言いがたい。不遇キャラ多いし。特に旧シリーズに関しては、はっきり言って思い出補正全開で、全然客観的に見られてないとは思う。でも、僕はそういうアラのような部分、完璧じゃない部分も含めて、激伝という作品を愛している。

 

ただし、ここであえて言うならば、新章に関しては本当に評価できると思う。とにかく、20年越しに集大成をするぞというのが伝わってくる出来で、ただ「ウルトラマンドラゴンボールをやる」だけに留まらない、激伝ならではの良さ、キャラクターの関係性、そういうものの総決算になっているからだ。

 

だから、もしもここまで記事を読んでくれて、激伝に興味が湧いてきたという人は、どうか新章まで読んでほしい。つまり全シリーズ通してということなので、身もふたもない話ではあるのだが。

 

特に、たとえばあなたがジードやZのようなニュージェネ作品のファンだとしたら、是非とも激伝に触れてみてほしいと思う。ニュージェネ世代、もっと正確に言うとゼロ以降のウルトラマンに親しんだ人はキャラクターとしてのウルトラ戦士に慣れており、一つの物語の形として激伝も楽しめるのではないかと思うからだ。漫画を開けば、やりすぎなくらい熱い物語があなたを待っているぞ。電子版もある。

 

激伝の良さは語り尽くせないが、同時に誰にでも手放しで勧められるものではないな、というのも分かっている。誰にでもきっと、別格扱いの思い出の作品というものがあるだろう。僕にとってそのうち最も大きな作品の一つが、ウルトラマン超闘士激伝なのだ。

 

そんな作品を世に送り出してくれて、そして時を経て素晴らしい形で完結させてくれた作者のお二人、また復活プロジェクトを主導された秋田書店の担当者には、本当に本当に心からの感謝しかない。

 

僕が一番好きなウルトラマンは、ティガでもメビウスでもなく、あの強すぎるほどに最強で面白みがないほど聖人君子な闘士ウルトラマンだ。一番好きな宇宙人は、誇り高き武人で偉大な師匠で元侵略者のくせに誰よりもお人好しの大魔王だ。

 

ありがとう、ウルトラマン超闘士激伝。

 

僕は、激伝世代だ。

 

 

 

 

NO MORE 自責思考

自責思考、とか、自責型人間(人材)、とかいう言葉がある。

 

簡単に言うと、何か問題が起きたときに、またはある状況に対して、それを他人ではなく自分に責任があるとする考え方や、そういう思考法を実践する人間(人材)のことだそうだ。

 

クソくらえ、と思う。

 

自分は昔から、この自責思考というやつが大嫌いだ。単にひねくれ根性の逆張りをしているのではない。そもそも世の中、言葉が通じないやつはごまんといるし、どう考えても10:0で相手が悪いことも山ほどあるし、自分の力の及ばない環境の変化が最悪の事態を招くことだって多い。

 

また、仮に相手の言い分に一定の合理性があったとしても、それを盾に横暴な振る舞いをしたり、まして相手を傷つけるような侮蔑的な言い方をするなど、許されるものではない。

 

自分に言わせれば、そんなものは全て相手のせいだし、運が悪いせいだし、環境が悪いせいだ。こちらには何の落ち度もない。それを「もしかしたら自分にも悪いところがあったかもしれない」と省みろ、相手を責めるならその分自分を責めろなんて、ふざけるなよと思う。

 

自責思考を完璧に極めるとどうなるか。何か辛いこと、どうしようもないことがあって精神的に追い詰められたとしても、「こんなに辛いのは自分のせいだ。自分の心が弱いからだ」ということになるだろう。これだけだと極端な例かもしれないが、間違いなく言えるのは、行き過ぎた自責思考は心の病を招くということだ。どんなことがあっても己を責めるのだから当然だ。こうして書いている自分自身も、うつで療養中の身であるが、落ち込む波が来ているときにはどうしても自責的・自罰的な思考に陥りがちであるという自覚がある。

 

世間に蔓延る自己責任論の問題点というのがネット上で議論されるようになって久しいが、一方で自責思考については、未だにデキるビジネスマンの心得だかなんだか知らないが、持て囃されている気がする。言うまでもなく、この二つは完全に同じものだ。自己責任を略して自責だ。

 

本筋から少し脱線するが、この話をしていると思い出すのが、新卒一年目の頃のことだ。ある人事の人間が一方的に気に入ったからなどという、こちらからしたら理不尽極まりない理由で、秘境一歩手前のような僻地に研修明け早々飛ばされた。電車はもちろん通ってないし、ATMで現金を下ろしたいと思ったら車で往復2時間かけて峠を越える必要がある、そういう土地だった。

 

僻地に日本の法律は通用しないので、深夜まで無賃で残業をさせられることも数えきれないほどあった。深夜に急カーブの山道を自転車で登っていると、谷底の暗闇に吸い込まれそうになった。町の片隅にある橋には、自殺防止の看板が立っていた。そこに書かれていたスローガンは、今でも一言一句覚えている。幸いにして自分は一年でそこから再び異動となり、東京に配属されたが、当時は3年いるのか10年いるのか、全く予想ができない状況だった。

 

その土地で働き始めてすぐに、新社会人として初めて自分の意思で誓ったことが、一つだけあった。それは「無責任になろう」ということだった。元来メンタルの強くない自分が、ただでさえ環境に追い詰められているのに、これで仕事にまで責任を感じてしまえば、確実に心が壊れるという切実な恐怖があった。頭の中にはいつも、あの自殺防止の看板や、谷底の暗闇が張り付いていた。

 

とにかく、無責任になると決めた。どうせ、それでも素の変な真面目さが働いて、完全な無責任にはならずに組織の中で適当な塩梅に収まるのだということも分かっていた。そうして、疲弊したり追い詰められたときには、寮の部屋でシャワーを浴びながら、「どうでもいい」と口に出してつぶやいていた。そうやって、狂うのを防ごうとしていた。もしかしたら既に軽く狂っていたのかもしれないが。

 

それでも、結果として無事に異動までは心身を持ち崩さず耐えることができた。最初に「無責任になろう」と誓ったのは、決して無意味ではなかったと今も信じている。

 

話を戻そう。もしあの時、無責任になろうとするのではなく、バカ正直に「自責型人材」とやらを目指していたら、どうなっていただろう。環境を楽しめないのは自分の思い込みのせいだ。この状況を糧にして成長するのが正しいあり方だ。そんな風に自分の心に嘘をついて、鞭を打っていたら、間違いなく壊れていただろうと思う。はっきり言って、鋼のように強い精神力を持った人間でもない限り、自責思考なんてものが成り立つのは、そこそこの負荷・逆境に対して、そこそこの決意で、そこそこの行動をするときに限られるのだ。

 

仮に、自責思考を理想通りに全うできるビジネスマンがいたとする。それは、果たして本当に有能な人材足りうるのだろうか?

 

自分は全くそうは思わない。どんな困難も自分に責任があると考えるというのは、視点を変えれば極端な思考停止だ。本当の責任の所在を考えること、ひいては問題の本質を見極めることを放棄しているからである。

 

自責という考え方は、会社・組織の経営者や上司といった権力者にとって、非常に都合のいいものだ。詰まるところそれは、どんな問題も自分が悪いのだと思い込んで、決して上に楯突くことのない人間を意味するからだ。自責型人間になれというのは、恰好いい呼び名を用いているだけで、文句を言わない企業の奴隷になれと言っているのと同じなのだ。

 

また、巷の自己啓発屋さんによれば、事業革新のサイクルが格段に早まり、既存の権威が根底から揺らぎ、価値観の変化が目まぐるしい現代だからこそ、自責型人材への転換が必要だそうだ。果たして、本当にそうなのだろうか。

 

自分の考えは違う。変化が目まぐるしく、先行きの読めない時代だからこそ、問題の性質を切り分け、その本質を見極めること、そのために考え続けることが必要なはずだ。何もかもを自分のせいだと思考停止して抱え込んでいて、それができるわけがない。せいぜい、適当に自己改善だのなんだのと、近視眼的で一時的な対応を取るのが精一杯だろう。

 

そうではなく、目の前のある状況に対して、どの部分に関しては自分が何もできなくて、どの部分なら自分が働きかけられるのか、そしてどう変えられるのか、ということを、懸命に考えるのだ。変えられない部分、どうしようもない事象については、そういうものだと冷静に受け止めて、その上で何ができるのかを考え、限られたエネルギーやコストといった己のリソースを配分するのだ。思考停止の自責ではなく、そうした思考を続ける姿勢こそが、最も理想的なあり方ではないだろうか。

 

ここまで、大人気の自責思考の問題点と本当にあるべき姿について自らの考えを述べてきたが、この記事を書いた目的は、実はもう一つある。前回の記事と似たような流れになってしまうが、メンタルヘルスに関連した話だ。

 

今、既に仕事や人間関係で追い詰められている人、しんどい人、疲弊している人へ。

 

あなたの中にもし、少しでも「自責」的な性格があるとしたら、できる限り、それから距離を置いてほしいと思う。あなたを苦しめている者がいるとしたら、そいつが悪い。何かの環境のせいで、自分にはどうしようもないもののせいで、あなたが苦しんでいるとしたら、あなたは一切悪くない。

 

だから、「自責」で自分を追いつめないでほしい。世の中がこんなことになって久しく、気分が落ち込むのは無理もない。ウィルスのせいだ。楽しいことばかり奪われたのも、好きな人たちになかなか会えないのも、テレワークで何だか疲れが取れないのも、あなたに責任はない。あなたの心が弱いから、気分が沈んでいるわけじゃない。

 

たとえば、あなたが職場の上司に何か言われて、落ち込むことがあったとする。もしかしたら、あなたは良くないミスをしたのかもしれないし、誰かに迷惑をかけたのかもしれない。でも、それだけのことだ。その行為についてだけ、あなたは反省すればいい。それ以上のことは必要ないし、もし上司の心無い物言いや態度で傷ついたなら、それは全てその上司が悪い。

 

おそらく、自分のブログをここまで読んでくれているあなたは、とても真面目で優しく、何か悪いことがあったら十分すぎるほど反省をしてしまうし、自分を責めてしまうような人が多いと思う。これは当てずっぽうでも何でもなくはっきり断言できることで、なぜかというと自分がメンタルをやってダウンして以降ごっそりフォロワーは減っており、今は優しい人しか残っていないからだ。

 

真面目で優しい人にありがちなのが、自分を傷つけた相手に対しても、「仕事はできる人だから」「尊敬できるところもあるから」と言ってしまうことだ。それ自体は何も悪くないし、そう言える人は本当に人格者だと思う。けれど、もしそれが悪い方に出て、「だからあの人は悪くない、自分が責められて当然だ」とまで思い込んでしまっているようなら、赤信号だ。あなたの心には自責の呪いが作用している。

 

どんな理由があろうと、どこに何年勤続してどれだけの実績を上げた人間だとしても、結婚して家族がいようと立派な役職があろうと、それは誰かの人格を攻撃していいことにはならない。本当にそいつができる人間なら、相応の言葉を選び、きちんと相手が納得できるように理を説くはずだ。もし、あなたの心を傷つけるやつがいたら、そんな相手のことを立てて過度に傷つくのはやめよう。あなたを傷つける相手が100%悪いのだ。自責の呪いから、自由になろう。

 

ただし、相手のせいにするのはいいけれど、憎しみを募らせ続けるのはおすすめしない。負の感情をバネにして力を漲らせるぜというタフな人ならいいが、たいていの場合怒りや憎しみというのは膨大なエネルギーを必要とするし、そのくせいつまでもまとわりついて、人の心をどんどん荒ませるからだ。それがもし、映画のような人生をかけた復讐なら……もう自分に言うことは何もない。しかしほとんどの場合、あなたを傷つけた人間はどうしようもない奴だ。他にどんなステータスがあろうと、あなたの心を害したというその一点において、そいつはクズであり、最低最悪な人間である。そう断じていい。

 

そんな相手を憎むのに貴重なエネルギーを浪費してしまうのは、ひたすらに勿体ない。あなたが疲弊するのは、割に合わない。だからどうか、そんな連中のことは、できることなら「どうでもいい」と切って捨ててやってほしい。あなたに気持ちの余裕がないときは、「言い方はキツいけど、あの人の言うことももっともだ」などと思わずに、「どうでもいい」と切り捨てて、少しでもあなたの心を守ってほしい。「どんな相手からも何かを学んで成長しよう」「相手のいいところを見つけよう」という姿勢を持つのは、元気になってからでいい。それまでは、きっとあなたは真面目すぎるから、「他責」くらいがちょうどいいのだ。

 

一方で、「どうでもいい」では片付かない問題もあるだろう。否応なく向き合わなければいけない問題もあるし、それこそ感染症の大流行のような、抗えない社会情勢の激変もある。それらから完全に逃げることは困難だ。それらに苦しむあなたにかける最適な言葉を、正直に言って今の自分は持っていない。ここまで書いてきてこれとは、己の無能さがつくづく嫌になるばかりだ。結局のところ、今の自分には同じ言葉を繰り返すことしかできないが、それでも今一度書かせてもらいたい。

 

あなたは悪くない。あなたが苦しんでいるのは、あなたの心が弱いからではない。だからどうか、自責の呪いでこれ以上自分の心を追いつめないでほしい。心が弱っているとき、疲れているときは、ひたすら「他責」でいいのだ。

 

お世辞にも褒められた考え方でないのは百も承知の上だし、結局最後は前回と同じような話じゃないかと言われたら、全くぐうの音も出ない。それでもこの乱文が、少しでもあなたを自責思考の呪いから解放できたら、あなたの気持ちを楽にする手助けとなれたなら、これほど嬉しいことはない。そう願っている。

 

 

一億総メンタルヘルス時代に向けて

メンタルを崩し、休職して2ヶ月と少し経った。

 

自分の中では、なぜここまでの状態になったのか、何が決定的だったのか、ということも、概ね整理がついてきた。

 

幸い、たくさんの人に優しい言葉をかけてもらい、リハビリと称した雑談に付き合ってもらい、平日を自由に過ごすことで、体調の波に大小はかなりあれど、最悪期は脱したという実感がある。

 

そこで、 この機にメンタルヘルスというものに関連して、以前から思っていたことを書こうと思う。

 

みんな、しんどくないですか?という話だ。

 

いきなり何をと言われそうなので補足すると、精神的にちょっと疲れてませんか?という問いかけである。もっと詳しく言うと、この一年半近く、いわゆるコロナ禍というものに突入してからのことだ。

 

みんなが有形無形のダメージを受けている。もちろん、実際に感染された方、直接的に損害を被っている業界でお仕事をされている方、医療従事者をはじめ戦時のごとき緊急対応の継続で疲弊されている方は、その最たる例だ。そうした方々への金銭その他の補償、復帰支援というのは真っ先に議論されるべきだろう。

 

加えて、海外の例では感染症から回復した後でも精神的な後遺症が残り、意欲の減退や極度の疲労感などを理由に仕事を続けられない人の報道も目にした。正直に言って、大変な恐怖を感じる。ポストCOVID時代には、この問題も世界的な保健に関する課題として取り組むべきだと思うし、何かよい方法論・復帰メソッドのようなものが確立されることを心から願っている。

 

加えて、今回考えたいのは、もっと広範な、それこそ世界中の人々とかそういうレベルで、精神的な息苦しさが続いているよね、という話だ。

 

戦争中にも喩えられるような閉塞感。好きな人達と一緒に過ごせない、楽しみにしていたことがキャンセルされる、ストレス解消の手段が絶たれる。自分自身は勿論、家族に感染させることがないかという恐怖とも戦っている。そして、事態が良くなる先行きが見えない。そんな中でも、日々の仕事は続き、今まで以上にストレスを募らせる。けれど、その捌け口がどこにもない。活力を取り戻すことが許されない。そんな事態が、もうずっと続いている。

 

ダウンする前から考えていたことではあるが、今改めて強く思う。日本国民1億人、もっと言えば世界の人口77億人のうち、かなりの割合の人々が、静かにメンタルヘルス予備軍になってないか?と。

 

自分の場合は2年前から仕事で少しずつ精神が弱っていたところに、20年春からの感染拡大と外出自粛、第一子の誕生と育休、そこからの復帰、異動に伴う引き継ぎと新しい仕事のスタート、と立て続けに環境の変化があり、最終的にダウンした。その後に振り返ってみて、大学時代の知人との飲み会や泊まりの旅行などが、自分にとっては活力を取り戻すのにとても大きな役割を担っていたことを再認識した。それらは去年からほとんど一切失われた。

 

不要不急と四字熟語で切って捨てるのは簡単だ。だけど、その不要不急で活力を得ることで、何とかみんな日々を送っていたんだと思う。

 

友達に会いたい。ライブやイベントに行きたい。たまにはお酒を飲んで楽しみたい。けれど、今は仕方ないから、ぐっと我慢する。おそらく、多くの人がそうしてきただろう。けれど、それももうすぐ一年半だ。その間、明るいニュースがいくつあっただろう。期待した通りに物事が進んだことが、どれほどあっただろう?

 

ようやく、日本でもワクチン接種が始まった。概ね秋頃には大半の人が2回の接種を終える見込みだろうか。けれど、変異株の脅威についての報道も多く、まだ「○月からは安心して元に戻れる」と声高に語ることはできないのが現状だ。この秋や年末にかけて、事態の改善を見越して予定を立てていても、100%やれる!と確信を持っている人は少ないだろう。

 

そんな状況に、もう多くの人は無意識のうちに我慢の限界を迎えている。世間では既に、メンタルクリニックを受診する人がここ最近で急増したような話も出ているが、間違いなくその影には「医者にかかるほどじゃないけど、ずっと楽しいことがなくて気分が上がらない、なんだか疲れている」というような潜在的患者が何倍も隠れている。大きな症状が表面化しないだけで、日々ぎりぎりのバランスを保って生活を続けている。そういう人たちは、あと一つ何かきっかけがあるだけで、容易に決壊し、重度の症状に陥りかねない。

 

自分は会社の保健士に症状を説明したところ、即座に受診と休職を勧められた。実際にクリニックを受診すると、当日に即診断書発行、翌日から休職に入った。「薬を飲みながら様子を見つつ仕事を続けましょう」とかだと思ったら違った。相当ひどい状態だったらしい。

 

その時に頭によぎったのは、自分が客観的にこれほどひどい状態だと診断されるなら、あの人も、あの人も、今すぐ受診して休むべきじゃないか、ということだ。それくらい、周りのみんなが疲れている。追い詰められている。

 

だから、もしこれを読んでいる人の中に、「最近ストレスが溜まっており、ちょっとおかしい」という人がいたら、どうか面倒がらずに専門家に相談したり、クリニックを受診してほしい。これには自分自身の強い反省もある。去年の時点でも、何度か相互フォロワーに受診を勧められていたものの、その時は日が経てば気分が楽になったと言って結局何もせず、今回の事態を招いたという反省だ。

 

ちょっとおかしい、という段階で、専門家に話を聞いてもらい、適切な助言、あるいは治療を受けてほしい。おそらく、あなたが思うより、あなたは頑張っている。頑張りすぎて、追い詰められている。

 

おそらくこの先、社会では目に見える形で、メンタルヘルス患者の数が激増してくるだろう。明るい人、タフそうな人、など関係ない。皆さんの職場でも、今まででは考えられなかったような人が、上司・部下が突然限界を迎えて、お休みに入るかもしれない。もう、そういう時代が来ることは避けようがない。日本という国から、それを回避できるような力強いメッセージは出されなかった。安心して希望を持てるような行動は取られなかった。だから、これから先は一億総メンタルヘルス予備軍の時代だ。

 

ならばせめて、これからの行動を変えていくしかない。もうメンタル要因で休職したからと言って、偏見を持って接するようなふざけたことはいい加減に終わりにするべきだ。「あの人はメンタル弱いから」と噂したり、昇進に差し障るなど以ての外だ。もういっそ、「うつ病で休んでました」も、「インフルエンザで休んでました」くらいの扱いになればいい。(当然ながら療養・復帰支援に適切なプロセスを取るのは前提で、それとは別の話だ)

 

メンタルを崩さないようにケアしても、世界中が一年半にわたり状態異常でスリップダメージを受けてきた中では、限界がある。だから、回復したときに何の気兼ねもなく復帰できるように迎えてあげる体制を職場の意識レベルで整え、メンタル既往歴のある人もそうでない人も、何の支障もなく働けるような、そういう世の中に変えていくしかないのだ。

 

幸い、自分自身の休職に対して今のところ会社からはネガティブな扱いは受けておらず、「ゆっくり休んで戻ってきて」というスタンスで接してもらっている。ただし、本質的にはいわゆる体質が古い会社だと自分は見做しているため、今後どんな悪い展開が待ち受けているかは、率直に言って分からない。その点については、ある程度覚悟はしている。どうしてもダメそうなら人生初の転職をすることになるだろう。

 

だからせめて、自分自身は今までよりも身近な人をケアできるように、経験を活かして手を差し伸べられるように、仕事場でもプライベートでも生きていきたいと思う。

 

 

最後になるが、どうしても書きたかったことを追記する。どこか以前のように元気が出ないけれど、「コロナで辛いのはみんな一緒だし、私も我慢しないと」と思っている貴方へ。

 

貴方の辛さは、誰とも比べる必要がない。貴方だけのものだ。貴方だけが弱いから苦しんでいるわけじゃない。みんなが我慢しているとしても、それはみんな何かのきっかけで決壊しかねないほど、ギリギリのところにいるということだ。そして、貴方もそうなのだ。ずっと頑張ってこられて、今既にギリギリのところで踏みとどまっているのだ。

 

だから、「みんなと一緒に我慢する」必要なんてない。どうか、自分の心身の声を過小評価しないでほしい。風邪のひきはじめから大事をとって休むように、花粉症が始まる前から薬を飲み始めるように、大したことないかもしれないけど、と思いながらでいいので、専門家に頼る形でその不調と向き合ってあげてほしい。それが、休職という形にはなったけれど結果的にギリギリで助かった自分からの、精一杯のメッセージだ。

 

 

 

 

 

褒め上手になりたい

褒め上手になりたいと思う。

 

具体的に言うと、褒めた相手に目一杯喜んでほしい。

 

そのためにいつも考えているのが、その人にとって褒められたいポイントを的確に褒めたい、ということだ。褒め上手ということだともう一つ、「その人自身も気付いていないポイントを褒める」というのも思いつくが、そっちはちょっと容易ではないので、今日は前者をテーマにして思っていることを書いてみたい。

 

人によって、言われたら「分かってくれてるな!」となるような嬉しい言葉もあれば、褒め言葉のつもりで言ったのに全く嬉しくない、それどころか逆効果になる言葉もある。ある人にとって最上級の言葉が、ある人にとっては中傷にしかならないということも有り得るだろう。

 

たとえば自分の場合、「面白い」と言われるのは勿論とても嬉しいが、「変わってる」と言われるのも嬉しい。何なら「声がでかい」「クセが強い」とかも勝手に褒め言葉と受け取って喜ぶ。

 

逆に、「真面目」と言われてもあまりピンと来ない。また、会社の上司に「これなら管理職になっても大丈夫」と言われることが度々あるが、そもそもうちの会社で管理職になりたくもなければ管理職を尊敬もしてないので、全くやる気が出ることはない。

 

この話に関連して、思い出すことがある。新卒一年目にド僻地に飛ばされた後、一年経って東京への異動が決まって、送別会を開いてもらっていたときのことだ。

 

当時はあまりに仕事も生活も苦痛すぎて、会社の人間には気を許さずコミュニケーションを最低限にしていた。具体的には、それ以外の場面の自分からは考えられないほど、大人しく真面目に日々の仕事を消化していた(軽く精神を病んでいた節もあると思う)。

 

そんな中だったので、内示をもらった際に人事管掌の管理職から「お前は真面目すぎて控えめなところがあるからな」というようなことを言われても、そもそも全く素の自分を出していなかったので、何も感じることはなかった。

 

しかしながら、送別会の席で挨拶回りをしていたとき、現地採用叩き上げのベテランおじいさん社員から言われた言葉は全く違った。

 

彼は、「アンタは口が上手い。それは営業でも武器になるから、意識して磨きなさい」というようなことを言ってくれた。それがものすごく嬉しかった。

 

彼は、俺の唯一最大のセールスポイントが喋りであることを見抜いていた。そして、それをさらに訓練しなさい、と言ってくれたのだ。

 

このおじいさんと俺は上司部下でもなく、一緒に仕事をすることはなかった。隣の係だったので、たまに課の飲み会とかで一緒になることはあったが、まあ率直に言ってテンプレな前時代の田舎の人というか、説教くさい爺さんというか、そんな印象しかなかった。

 

この言葉をもらって、そんな自分の認識を反省した。深い理由があってのことかは分からないし、「口が上手い」と褒められて喜ばない人もいるかもしれない。それでも自分にとっては、会社でおそらく初めて、「自分の褒められたいポイントを褒めてくれた」言葉だった。それから7年以上が経った今でもその言葉通りに、意識して自分の喋りを磨きたいな、と常々思い、試行錯誤しながら過ごしている。

 

話を戻すが、そういうわけで自分でも、相手が褒められたいポイントをなるべく見つけて、そこを褒めるように、その人が言われて嬉しい言葉を選ぶように心がけている。

 

相手を褒めるときはなるべくストレートに、照れずに思った通り伝えるようにする。別に相手をおだてて何かしてほしいわけではないので、自分がいいなと思わなかったら無理にひねり出すことはない。そんな感じでやっている。

 

 

また少し話は逸れるが、就活を始めたあたりから何となく、みんながもっと自分も他人も褒めた方がいいのにな、と思っている。就活生の自己分析にしても、昨今よく耳にする自己肯定感云々も、みんながもっと自分自身を褒めて、そして互いを褒め合うようになれば少しは違うんじゃないかな、とかそんなことを考えている。

 

褒めるのは上から目線っぽくて嫌だから、私は人を褒めない、という人がいた。そういう意見もあるだろう。「褒める」という行為(言葉)自体が、なんだか親や先生、上司など目上→目下に向けての行為に感じられるというのは、理解できる。ただ、自分が褒められたときに素直に受け取らず「上から目線なやつだ!」と反応してしまうのだとしたら、それは自分を不幸にしているだけでは……とも思うが。

 

また、褒められたときに、自分は大したことないのに……とかえって恐縮してしまう、という人もいた。その人に対しては、自分は本当にそう思ってます、具体的にはこんなことです、俺にはできないです、と続けて話もしたのだが、それがどれくらい伝わるものかはやっぱり分からない。

 

だから、みんなが褒め合えばいいのにな、というのは自分のエゴでしかない。自分のこういう行動指針が、確実に誰かにとってプラスになったのだと胸を張れることもない。特に理論的な紐づけをして語っているわけでもなければ、思想を持って人材育成の仕事をしているわけでもない。せいぜいが、会社の後輩に接するときに意識しているくらいだ。

 

自分が褒められたいから、他人を褒める。相手に喜んでもらえると自分が嬉しいから、褒める。自分のエゴの行きつくところは、言い換えればこれに尽きる。つくづくしょうもない人間だなと思う。だけど、だからと言って黙っているのはやっぱり性に合わないので、ならばせめて相手が心地よくなってくれるように、少しでも褒め上手になりたいのだ。

 

というわけで、褒められたい人、常時募集してます。

 

 

31歳になりました

こんにちは、灰色です。案の定三日坊主どころか二日坊主になってましたが、ブログ自体は続けます。多分。

 

さて、タイトルの通り、昨日7/9でめでたく31歳になりました。30歳は節目感もあったのですが、31となると何の感慨もないというか、あとは数字が増えていくだけ感がありますね。

 

本当にありがたいことに、Twitterでもたくさんの人からリプをもらいまして、しかも調子に乗って作った欲しいものリストから今日なんか届くらしいです。大丈夫なんでしょうか。自分が積んだ徳に対して明らかに釣り合わないoverkill量のhappinessが降ってきている気がします。ありがたい限りです。

 

インターネットキッズだった時代は(ここでいうインターネットキッズのニュアンスはyahoo!きっずではなく、グラップラー刃牙最大トーナメント編第2回戦アイアンマイケルvs芝千春の「ファイティング・キッズ」です)、自分の素性、まして年齢を明かすなんて以ての外というのが常識の世界で育っていたので、31歳になったよと言ってお祝いしてもらったり、「同世代ですね!」と声をかけてもらえたりするのが、なんだか未だに不思議な気もしています。

 

卒業して就職して以降、その前のことを振り返って懐かしむだけにはなりたくないな、という思いが、ずっと漠然とありました。自分の場合、新卒一年目は僻地(地方でも田舎でもない)に飛ばされてほぼ丸ごとロストしたこともあり、二年目に関東へ帰還してからは失った一年を取り戻さんと結構やりたいことをやってきました。また、2016年からはハイローにハマってたくさんの素敵な方々と相互フォローになれましたし、幸運にも会社の金で海外に行く機会にも恵まれたりもしました。そんなこんなのおかげさまで、常に楽しさの瞬間最大風速を更新、今が一番楽しい!という状況を更新しながら2020年までやってこれており、全然「あの頃はよかった」と言わずに済んでおりました。裏を返せば、万事が順風満帆とまでは言わないものの、仕事も家庭もその他人間関係も何とかやってこれたということでもあり、本当に幸運続きだったのだなと今は思います。

 

しかしながら、2020年は世の中と同様に自分にとっても激動の年になりました。具体的には、年始に祖母が亡くなり、ほぼ同時に妻が妊娠、2月末からは在宅勤務となり、そのまま8月末に第一子が誕生、2か月間の育児休暇、という感じで、本当に変化の連続で目まぐるしかったな……という記憶しかありません。

 

そうして21年に入ると、新卒2年目から7年勤めた職場からの異動と家事育児でのごたごたが重なり、19年秋くらいから不安定気味だったメンタルがついに崩れました。そうして5月から休職に入り、今こうしてブログを書いています。

 

この一年半ほどは、率直に言って19年~20年頭(before COVID-19)のように大声で「今年が一番楽しい!」というような時期ではありせんでした。ほとんど友人と遊びに行くこともなくなったことで、やっぱり自分は定期的に人と会って話して遊びたいタイプなんだな、とかえって実感しました。また、我が子は大変可愛いものの、やはり常に緊張感を持って接しており、100%楽しいだけ!とは言えないのが正直なところです。

 

今では持ち直しましたが、4月末頃から5月にかけては自分でも別人になってしまったのかというほどの落ち込みようでしたし、今でも不安が付きまとって呑み込まれそうになることもしばしばあります。

 

それでも、いいこともありました。Twitterでも、また大学時代の先輩・同期・後輩にも、本当にたくさん優しい言葉、あたたかい言葉をもらいました。相互だけどあまり話したことのない方がたくさんお話をしてくれたり、久しく連絡を取っていなかった先輩が話を聞いてくれて、それを機にたくさん雑談をするようになったりもしました。

 

弱ったのをいいことに優しくされて喜んでいる自分を、卑怯な奴だと思うような気持ちもありましたが、皆さんに話しかけていただいたことは掛け値なしで本当に嬉しかったです。今でも弱っているときに読み返して元気をもらいます。自分のツイートが好きだと言ってくださった方、すごく真摯な言葉を丁寧に選んでくださった方、何よりも救われました。本当にありがとうございました。

 

苦しんでいる人に手を伸ばすことは、たとえ文字だけのコミュニケーションだとしても、途方もない気力と勇気が必要なことだと思います。不適切じゃないか、かえって悪く取られたらどうしよう、自分なんかが声をかけていいんだろうか、そういう葛藤が伴うものだというのは、自分自身の経験からもよく分かっています。そうして、特にオンラインでは、苦しんでいる人に対して適切な言葉を選ぶことができず、何もできなかったことを後まで悔やんだ経験が、自分もたくさんありました。

 

だからこそ、目を背けたくなるような、ブロックして絶縁したくなるような有様の自分に対して、たくさんの人が一歩踏み込んできてくださったことが、本当に心の底から嬉しかったです。

 

これから先、元気になれたら、まず自分を助けてくれた人に恩返しがしたいと強く思います。できる限りのことをして楽しませたいし、もし落ち込むことがあれば、今度は自分が力になりたいと願っています。

 

そしてその先は、自分が嬉しかったこと、救われたことを思い出して、以前よりも少し勇気を出して、苦しんでいる人に言葉をかけられるようになりたいと思います。大袈裟でも、単なるエゴに過ぎなくても、そうして少しでも、病気する前より優しい人間になれたらいいな、というのが、今の目標のようなものです。

 

落ち着いてきたとはいえ、今も気を抜くと、あるいは何かのきっかけがあるだけで、エネルギーが枯渇してダウンしかねないというのが、おそらく自分の客観的な病状、現実です。そんな状態で大それたことを言うのは気が早すぎるとも思いますが、31歳からの1年間の決意表明として、この感情が薄れないうちにここに記します。大袈裟で暑苦しくて青臭くて独りよがりなことを書けるのがブログのいいところです。きっと。