灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

NO MORE 自責思考

自責思考、とか、自責型人間(人材)、とかいう言葉がある。

 

簡単に言うと、何か問題が起きたときに、またはある状況に対して、それを他人ではなく自分に責任があるとする考え方や、そういう思考法を実践する人間(人材)のことだそうだ。

 

クソくらえ、と思う。

 

自分は昔から、この自責思考というやつが大嫌いだ。単にひねくれ根性の逆張りをしているのではない。そもそも世の中、言葉が通じないやつはごまんといるし、どう考えても10:0で相手が悪いことも山ほどあるし、自分の力の及ばない環境の変化が最悪の事態を招くことだって多い。

 

また、仮に相手の言い分に一定の合理性があったとしても、それを盾に横暴な振る舞いをしたり、まして相手を傷つけるような侮蔑的な言い方をするなど、許されるものではない。

 

自分に言わせれば、そんなものは全て相手のせいだし、運が悪いせいだし、環境が悪いせいだ。こちらには何の落ち度もない。それを「もしかしたら自分にも悪いところがあったかもしれない」と省みろ、相手を責めるならその分自分を責めろなんて、ふざけるなよと思う。

 

自責思考を完璧に極めるとどうなるか。何か辛いこと、どうしようもないことがあって精神的に追い詰められたとしても、「こんなに辛いのは自分のせいだ。自分の心が弱いからだ」ということになるだろう。これだけだと極端な例かもしれないが、間違いなく言えるのは、行き過ぎた自責思考は心の病を招くということだ。どんなことがあっても己を責めるのだから当然だ。こうして書いている自分自身も、うつで療養中の身であるが、落ち込む波が来ているときにはどうしても自責的・自罰的な思考に陥りがちであるという自覚がある。

 

世間に蔓延る自己責任論の問題点というのがネット上で議論されるようになって久しいが、一方で自責思考については、未だにデキるビジネスマンの心得だかなんだか知らないが、持て囃されている気がする。言うまでもなく、この二つは完全に同じものだ。自己責任を略して自責だ。

 

本筋から少し脱線するが、この話をしていると思い出すのが、新卒一年目の頃のことだ。ある人事の人間が一方的に気に入ったからなどという、こちらからしたら理不尽極まりない理由で、秘境一歩手前のような僻地に研修明け早々飛ばされた。電車はもちろん通ってないし、ATMで現金を下ろしたいと思ったら車で往復2時間かけて峠を越える必要がある、そういう土地だった。

 

僻地に日本の法律は通用しないので、深夜まで無賃で残業をさせられることも数えきれないほどあった。深夜に急カーブの山道を自転車で登っていると、谷底の暗闇に吸い込まれそうになった。町の片隅にある橋には、自殺防止の看板が立っていた。そこに書かれていたスローガンは、今でも一言一句覚えている。幸いにして自分は一年でそこから再び異動となり、東京に配属されたが、当時は3年いるのか10年いるのか、全く予想ができない状況だった。

 

その土地で働き始めてすぐに、新社会人として初めて自分の意思で誓ったことが、一つだけあった。それは「無責任になろう」ということだった。元来メンタルの強くない自分が、ただでさえ環境に追い詰められているのに、これで仕事にまで責任を感じてしまえば、確実に心が壊れるという切実な恐怖があった。頭の中にはいつも、あの自殺防止の看板や、谷底の暗闇が張り付いていた。

 

とにかく、無責任になると決めた。どうせ、それでも素の変な真面目さが働いて、完全な無責任にはならずに組織の中で適当な塩梅に収まるのだということも分かっていた。そうして、疲弊したり追い詰められたときには、寮の部屋でシャワーを浴びながら、「どうでもいい」と口に出してつぶやいていた。そうやって、狂うのを防ごうとしていた。もしかしたら既に軽く狂っていたのかもしれないが。

 

それでも、結果として無事に異動までは心身を持ち崩さず耐えることができた。最初に「無責任になろう」と誓ったのは、決して無意味ではなかったと今も信じている。

 

話を戻そう。もしあの時、無責任になろうとするのではなく、バカ正直に「自責型人材」とやらを目指していたら、どうなっていただろう。環境を楽しめないのは自分の思い込みのせいだ。この状況を糧にして成長するのが正しいあり方だ。そんな風に自分の心に嘘をついて、鞭を打っていたら、間違いなく壊れていただろうと思う。はっきり言って、鋼のように強い精神力を持った人間でもない限り、自責思考なんてものが成り立つのは、そこそこの負荷・逆境に対して、そこそこの決意で、そこそこの行動をするときに限られるのだ。

 

仮に、自責思考を理想通りに全うできるビジネスマンがいたとする。それは、果たして本当に有能な人材足りうるのだろうか?

 

自分は全くそうは思わない。どんな困難も自分に責任があると考えるというのは、視点を変えれば極端な思考停止だ。本当の責任の所在を考えること、ひいては問題の本質を見極めることを放棄しているからである。

 

自責という考え方は、会社・組織の経営者や上司といった権力者にとって、非常に都合のいいものだ。詰まるところそれは、どんな問題も自分が悪いのだと思い込んで、決して上に楯突くことのない人間を意味するからだ。自責型人間になれというのは、恰好いい呼び名を用いているだけで、文句を言わない企業の奴隷になれと言っているのと同じなのだ。

 

また、巷の自己啓発屋さんによれば、事業革新のサイクルが格段に早まり、既存の権威が根底から揺らぎ、価値観の変化が目まぐるしい現代だからこそ、自責型人材への転換が必要だそうだ。果たして、本当にそうなのだろうか。

 

自分の考えは違う。変化が目まぐるしく、先行きの読めない時代だからこそ、問題の性質を切り分け、その本質を見極めること、そのために考え続けることが必要なはずだ。何もかもを自分のせいだと思考停止して抱え込んでいて、それができるわけがない。せいぜい、適当に自己改善だのなんだのと、近視眼的で一時的な対応を取るのが精一杯だろう。

 

そうではなく、目の前のある状況に対して、どの部分に関しては自分が何もできなくて、どの部分なら自分が働きかけられるのか、そしてどう変えられるのか、ということを、懸命に考えるのだ。変えられない部分、どうしようもない事象については、そういうものだと冷静に受け止めて、その上で何ができるのかを考え、限られたエネルギーやコストといった己のリソースを配分するのだ。思考停止の自責ではなく、そうした思考を続ける姿勢こそが、最も理想的なあり方ではないだろうか。

 

ここまで、大人気の自責思考の問題点と本当にあるべき姿について自らの考えを述べてきたが、この記事を書いた目的は、実はもう一つある。前回の記事と似たような流れになってしまうが、メンタルヘルスに関連した話だ。

 

今、既に仕事や人間関係で追い詰められている人、しんどい人、疲弊している人へ。

 

あなたの中にもし、少しでも「自責」的な性格があるとしたら、できる限り、それから距離を置いてほしいと思う。あなたを苦しめている者がいるとしたら、そいつが悪い。何かの環境のせいで、自分にはどうしようもないもののせいで、あなたが苦しんでいるとしたら、あなたは一切悪くない。

 

だから、「自責」で自分を追いつめないでほしい。世の中がこんなことになって久しく、気分が落ち込むのは無理もない。ウィルスのせいだ。楽しいことばかり奪われたのも、好きな人たちになかなか会えないのも、テレワークで何だか疲れが取れないのも、あなたに責任はない。あなたの心が弱いから、気分が沈んでいるわけじゃない。

 

たとえば、あなたが職場の上司に何か言われて、落ち込むことがあったとする。もしかしたら、あなたは良くないミスをしたのかもしれないし、誰かに迷惑をかけたのかもしれない。でも、それだけのことだ。その行為についてだけ、あなたは反省すればいい。それ以上のことは必要ないし、もし上司の心無い物言いや態度で傷ついたなら、それは全てその上司が悪い。

 

おそらく、自分のブログをここまで読んでくれているあなたは、とても真面目で優しく、何か悪いことがあったら十分すぎるほど反省をしてしまうし、自分を責めてしまうような人が多いと思う。これは当てずっぽうでも何でもなくはっきり断言できることで、なぜかというと自分がメンタルをやってダウンして以降ごっそりフォロワーは減っており、今は優しい人しか残っていないからだ。

 

真面目で優しい人にありがちなのが、自分を傷つけた相手に対しても、「仕事はできる人だから」「尊敬できるところもあるから」と言ってしまうことだ。それ自体は何も悪くないし、そう言える人は本当に人格者だと思う。けれど、もしそれが悪い方に出て、「だからあの人は悪くない、自分が責められて当然だ」とまで思い込んでしまっているようなら、赤信号だ。あなたの心には自責の呪いが作用している。

 

どんな理由があろうと、どこに何年勤続してどれだけの実績を上げた人間だとしても、結婚して家族がいようと立派な役職があろうと、それは誰かの人格を攻撃していいことにはならない。本当にそいつができる人間なら、相応の言葉を選び、きちんと相手が納得できるように理を説くはずだ。もし、あなたの心を傷つけるやつがいたら、そんな相手のことを立てて過度に傷つくのはやめよう。あなたを傷つける相手が100%悪いのだ。自責の呪いから、自由になろう。

 

ただし、相手のせいにするのはいいけれど、憎しみを募らせ続けるのはおすすめしない。負の感情をバネにして力を漲らせるぜというタフな人ならいいが、たいていの場合怒りや憎しみというのは膨大なエネルギーを必要とするし、そのくせいつまでもまとわりついて、人の心をどんどん荒ませるからだ。それがもし、映画のような人生をかけた復讐なら……もう自分に言うことは何もない。しかしほとんどの場合、あなたを傷つけた人間はどうしようもない奴だ。他にどんなステータスがあろうと、あなたの心を害したというその一点において、そいつはクズであり、最低最悪な人間である。そう断じていい。

 

そんな相手を憎むのに貴重なエネルギーを浪費してしまうのは、ひたすらに勿体ない。あなたが疲弊するのは、割に合わない。だからどうか、そんな連中のことは、できることなら「どうでもいい」と切って捨ててやってほしい。あなたに気持ちの余裕がないときは、「言い方はキツいけど、あの人の言うことももっともだ」などと思わずに、「どうでもいい」と切り捨てて、少しでもあなたの心を守ってほしい。「どんな相手からも何かを学んで成長しよう」「相手のいいところを見つけよう」という姿勢を持つのは、元気になってからでいい。それまでは、きっとあなたは真面目すぎるから、「他責」くらいがちょうどいいのだ。

 

一方で、「どうでもいい」では片付かない問題もあるだろう。否応なく向き合わなければいけない問題もあるし、それこそ感染症の大流行のような、抗えない社会情勢の激変もある。それらから完全に逃げることは困難だ。それらに苦しむあなたにかける最適な言葉を、正直に言って今の自分は持っていない。ここまで書いてきてこれとは、己の無能さがつくづく嫌になるばかりだ。結局のところ、今の自分には同じ言葉を繰り返すことしかできないが、それでも今一度書かせてもらいたい。

 

あなたは悪くない。あなたが苦しんでいるのは、あなたの心が弱いからではない。だからどうか、自責の呪いでこれ以上自分の心を追いつめないでほしい。心が弱っているとき、疲れているときは、ひたすら「他責」でいいのだ。

 

お世辞にも褒められた考え方でないのは百も承知の上だし、結局最後は前回と同じような話じゃないかと言われたら、全くぐうの音も出ない。それでもこの乱文が、少しでもあなたを自責思考の呪いから解放できたら、あなたの気持ちを楽にする手助けとなれたなら、これほど嬉しいことはない。そう願っている。