灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

理性の死んだ日

人生で初めて、思っていることを片っ端から深く考えずに書いた気がする。そのことで幻滅させてしまった人がいるかもしれないし、また多大な心配をおかけした方々には大変申し訳ない。

 

人間は頭の中で思考する時、自分の身につけた言葉を用いる。幸いにして自分は、それがスムーズなようで、何が言いたいか自分でも分からずにモヤモヤする、ということは最近はあまりない。全てが瞬時に頭の中で言語化される。

 

ただ、それを吐き出す先があるかというと別だ。大体は言葉になったところで、出ていかずに頭の中に染みつく。そうして、自分の中で言葉が滞留し腐敗して、自家中毒を起こしている。そうやって腐っていった言葉がどこに行くかというと、自分の中のブラックボックスのような、整理整頓が下手な人間の収納箱のような、悪い感情と悪い言葉をとりあえず突っ込んでおくスペースに入れられている。

 

この箱は自分の中の、理性的でない部分、理想的でない部分と直結している。あらゆる暴力性、衝動、欲望が沈澱したヘドロのような部分だ。昔から自分はパニック癖があり、短気で、予想外のことに弱く、すぐに激昂する。ちなみに、妻は「すぐにテンパる」と言って自分のこうした部分を毛嫌いしている。

 

自分の性質だと認めるのが嫌で、かなりの癇癪持ちだった父親から遺伝したのだと自分に言い訳をしている。そうならないように、仕事でもなんでも常に最悪のケースを予想して、二手三手先の展開まで考えて動くような癖がついたし、何でも即座に仮説を立てて考えるようにしている。土壇場に弱くメンタルがもたないのは分かっていたし、長時間集中力がもたないので、受験勉強も先行逃げ切りのような感じだった。

 

とにかく、自分の中にとてもおぞましい、醜い、凶暴な部分がある。Twitterのイメージや、明るくていい先輩として作り上げてきた表面とは真逆の、最悪の人間性だ。小学校の頃くらいからはもう、こいつが自分の中にいた気がする。中二病そのものみたいな言い方だが、本当に苦しんできた。もうずっと飼い慣らしてきたけれど、悪い酒の飲み方をしたときに顔を覗かせたり、精神が追い詰められると次第に接近してきた。

 

うつになって、こいつと自分が完全に一体化してしまった気がする。理性的な部分の自分が死んで失われた。今まで慎重に作ってきた足場が無くなったような気分だ。元よりそんなものはなかったのかもしれない。

 

Twitterで、自己顕示欲や性欲を剥き出しにしてけたたましく喚くアカウント、自慢話ばかりの連中が大嫌いだった。醜いと思った。だけどもしかしたら、羨ましいだけだったのかもしれない。人の目を気にしないで、何も我慢せずに好き放題に叫ぶのは、楽しくて快感だ。それが恐ろしい。こうして頭に浮かぶことを推敲もせず、自己批判もせずに垂れ流すのは、気持ちがいいのだ。

 

自分の理性的な部分は死んだのがわかる。今の自分は何なのだろうか。抑えつけていた卑屈で凶暴な部分が出てきて、トータルでは人に好かれるはずもない人格だということが、どんどん明らかになっていく。誰も彼もが離れていくだろうことが分かる。その後に残るものは何なのだろうか。

 

だけど一番恐ろしいのは、それを面白おかしく書けるかもしれないと思ってこの記事を書いている自分自身だ。何も我慢せずに文章を書いて放流するのは快感なのだ。醜い。

 

うつになって、自分が大事にしていたはずの建前の部分、理性的な部分が折れて死んでしまった。後に残っているのは醜い欲望のようなもの、暴力性の塊のような人間だ。そしてナルシストなのかマゾヒストなのか分からないこいつは、自己紹介を楽しんでいるようだ。自傷行為を面白がっている。最悪の生き物だ。

 

この自分が、この先まともにやっていける自信がない。不安だ。

 

辛うじて、うつになってからも仲良くしてくれた人達、気にかけてくれた人達の存在が自分の心をまともな形に繋ぎ止めている。その人たちは、過去の健康だった自分だけでなく、今のこうなった自分でも受け入れてくれている気がするからだ。その人たちに嫌われるのだけは怖い。

 

こんなことを長々と書いて、この先俺はどうするつもりなんだろうか。よく分からない。黙っておいた方が遥かに賢明だと思う。ただ、好き放題に書くのは楽しい。20年以上も我慢してきたことがいくらでも吹き出してくる。楽しい。それが怖い。何もかもを受け止めてくれる人なんて現実には存在しない。

 

もう大人で、家族もいる人間なんだから、最低限の分別を持たないといけない。そう分かっていても喚かずにいられない。今までの自分が遠くで死んで別人になってしまった。

 

懺悔室というのは、もしかしたらこういう人間のために必要だったのかもしれないと最近よく思う。