灰色の殴り書き

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笑って泣いてメメントモリ〜「生ける屍の死」感想

「すまない、ちょっと死んでたもんで聞いてなかった。もう一回最初から話してくれるか?」ーージェイムズ・バーリイコーン

 

 

またしても超絶面白い小説に出会ってしまった、という話。

 

今回紹介するのは山口雅也「生ける屍の死」。発表は1989年。同氏の作品はデビュー作の本作を読むまで手に取ったことがなかったのだが、これがまあ……開いた口が塞がらないどころか顎が外れるレベルで面白すぎた。昨年秋以降、新本格ミステリと言われる一連の作品群の有名どころを狂ったように次々と齧っているのだが、その中でもトップクラスの大ヒット。これは語らずにいられねえ、ということでまたまたブログに手をつけた。

 

舞台はアメリカ東部の片田舎にある架空の町、その名もトゥームズビル。日本語にすると「墓の町(村)」だ。時代背景はおそらく1980年代頃だろうか。メインキャストは葬儀会社と霊園を経営する一族の人々。

 

こう書くとひたすら地味で陰気な感じがするのだが、それが全然違う。本作の導入部にて、アメリカでは我々日本人にはちょっと想像し難い独特の葬儀文化があり、それに南部戦争以来の死体の防腐処理技術(エンバーミング)の発達と国家資格化も合わさったことで、葬儀会社は医者にも劣らないほどに社会的地位のある仕事であることが語られる。トゥームズビルに聳え立つ、その名も「スマイル霊園」の創始者は、そうした葬儀文化の発展を商機として一大財産を築いた人物だったのである。

 

そんなわけで、一族の面々は陰鬱な墓守のイメージとは真逆、地元有力者の成金一家といった具合に描かれている。こいつらがまあ、揃いも揃って食えない曲者ばかり。巻頭の登場人物紹介ではアメリカンネームがずらずら並んで辟易してしまうかもしれないが、心配ご無用、すぐにそいつらはやかましく目立ち始める。

 

さて、そんな田舎町でご多分に洩れず殺人事件が起きる。資産家一族の醜い遺産争い!?過去の連続女子誘拐殺人と関係が!?よくあるミステリだよね。ただ一つ、この作品で違うのは……死人が蘇るかもしれない、ってことだけです。

 

バカか?とお思いのあなた、どうか待ってほしい。この荒唐無稽な設定、到底物語が成立するとは思えない出オチ感溢れるアイディアが、しかしステージの法則として奇妙なバランスを一貫させ、本作を唯一無二のマスターピースたらしめているのだ。まるで、なぜ崩れないのか分からない自然石の塔、あるいはトランプでできたピラミッドのように。

 

それも、おどろおどろしい怪奇現象としてのトーンではない。なんかよく分からんけど、死人が蘇ることがあるらしい。まるで生ける屍だ。怖っ!困る!そんな感じだ。あらかじめ触れておくと、この作品は未知のゾンビウィルスを拡散させた悪のバイオ企業と対決するとか、呪いをもたらした悪魔とネクロマンサーを撃滅するとか、そういう物語ではない。墓の町はそういう時空になっているから、そういうもんらしい。それだけだ。ここが納得できないとスッキリしない!駄作!という人には向かないだろう。逆に、シチュエーション実験の極北に挑んでやろうという気概のある人であれば、必ず楽しめるはずだ。

 

この作品における「生ける屍」現象(作中にならい敢えてゾンビという語は避ける)は、いわば一つの物理法則、あるいは思考の前提条件である。そう、警察が科学捜査などできなかった時代も、空を飛ぶ乗り物が空想の産物だった時代も、手のひらサイズのコンピュータで地球の裏側とテレビ通話するなんて発想が存在しなかった時代も、ずっと物語は書かれてきた。それら過去の物語は今もなお普遍的な輝きを持っているが、一方で現代に生産される物語は、過去の常識からは意味不明でしかなかったようなシステムの数々を当たり前のものとして前提に置く。そういうものなのだ。この作品の生ける屍もそういうことだ。だって蘇るんだからしょうがないじゃん。ただ凄まじいのは、それを殺人事件を主題に扱ったミステリ小説に仕立ててしまうことなのだが。

 

本作はもちろんミステリ小説としての謎解き、推理部分も存分に楽しめるのだが、それ以上に際立つのが、異様な疾走感とハイテンションで最後まで突っ走るドタバタ感、ギャグ漫画的なコメディの嵐である。これはもう実際に読んでくれとしか言いようがないのだが、生者も死者も大真面目にバカをやっており、一回死んだやつにしか言えないキレキレの不謹慎セリフを飛ばしまくる。本当にシリアスな場面を除いては、前述の死者蘇生ギミックが殺人の暗さを霧散させていることもあり、終始明るく騒がしく物語は突き進む。愛する我が子を理不尽に奪われた親の絶望とか、社会の歪みが生んだ救われない怪物とか、そんな重いものは一切出てこない。クソバカ。B級ホラーコメディ。あるいは中期のこち亀

 

それでいて、テーマ部分は非常に芯が通っている。本作でしか描けない一つの問い、それは「死人が蘇っちゃうなら、殺人事件なんてマジにならなくて良くない?」だ。身も蓋もないように聞こえるクエスチョンだが、作中人物たちはこれに疑問を抱き、大いに悩む。そんな苦悩は勿論、本作でしか味わえないものだ。

 

また、本作は30章以上にそれぞれ短く分割されているのだが、各章の冒頭には聖書や古典ミステリの傑作から死をテーマにした名曲怪曲まで、様々な引用が綴られており、一層の没入感を演出している。物語と同時にそうした曲を聴いてみたり、作中で紹介される古今東西の葬送文化を調べてみることで、読書体験はさらにカラフルなものになるだろう。

 

ここでようやく、今まで触れずにきた主人公についても紹介しよう。葬儀社一家の当主の孫にあたる彼の名はグリン。日米ハーフのロンドン育ち、見た目はツンツンヘアーにキメキメのパンクだが、不良のくせに生い立ちのせいで妙に中身は文学青年じみてるところがあり、そのせいでパンクにもインテリにもなりきれない、虚無感と退廃的なムードを漂わせる若者だ。

 

つるんでいるのは同じくパンクな見た目のトラブルメーカーガール、チェシャ。こちらは霊園の二代目の愛人の連れ子という微妙なポジションで、グリン以上に一族からは鼻つまみ者扱いされているが、とにかく明るくて後先を考えない。この二人が物語を引っ張っていくのだが、冷めていて厭世的なグリンと、頭は悪くないが突っ走ってドタバタを引き起こすチェシャのコンビがまたマンガ的で、作中の雰囲気を一層明るくしている。

 

その他全員について語るのは我慢しつつ、もう一人だけお気に入りキャラを挙げるのを許してほしい。それはハース博士だ。彼は「死」について生物学、哲学、歴史学、その他あらゆる角度から真理を追究する、その名も「死学=タナトロジー」のスペシャリストである。博士はグランの良き友人であると同時に、その深い見識から霊園の特別顧問、地元警察の相談役も努めており、広く信頼を集めている。

 

この博士がまた、いいキャラをしているのだ。死の研究家でありながらいつも飄々として明るい彼は、案の定生ける屍現象を目の当たりにしても好奇心を抑えきれず、法則を解明せんと頭を捻る。一方、不謹慎ギャグを飛ばしながらも屍たちの悩める心に寄り添うような姿勢もあり、読者にとっても実に頼れる人物なのだ。

 

本書では、生が享楽化した反動で死を極端に恐れるようになった時代、ペストと戦争で誰もが死と隣り合わせにあった時代、そして社会の安定によって死がリアルさを失い、テレビの中の安全なコンテンツ化した現代と、それぞれ歴史の線上で死というものが文化的・心理的にどう受け取られてきたかが、実に分かりやすく興味深い形で語られる。この案内人もまたハース博士であり、本書自体が彼による「死学」の入門書にもなっているのだ。見方を変えれば、彼はコミカルな口調で語りながらも死について深く考える機会を与えてくれる存在であり、その姿勢は作品としての本書の有り様そのものとも一致していると言えよう。

 

その他のキャラも、実に人間くさく、見苦しくも愉快に振る舞って物語を彩るのだが、そこは葬儀屋の一族だけあり、こと葬儀のあり方や死生観については一家言ある連中ばかり。子孫への血の継承こそ死を超越する永遠だと語る者もいれば、死は敗北であるから勝者=生者は他人の死をエンタメ化する権利があると断言して憚らない者、死こそは美しき唯一絶対の平衡であり到達点と盲信する者、不満足な結婚生活は死と同等の苦しみだと嘆く者、はたまたキリストの教えを絶対視して最後の審判を待ち望み、その日に罪なき者たちは土中から蘇るはずだから火葬などもっての外とわめく者まで、引き込まれてしまうような演説が続く。

 

一方主人公のグリン自身は、日本的な死生観に触れていたこともあり、やはり強固な思想を持つことはなく刹那的で虚無的なスタンスを崩さない。そのため、作中で思想の優劣や正誤がジャッジされることはなく、読者もグリン同様にフラットで一歩引いたところから死生観のディスカッションを楽しめる仕組みだ。

 

しかしそのグリンにも、事件に深入りしていくにつれて段々と変化が訪れる。これは是非実際に読んで確かめてほしいため、具体的な言及は避けるが、彼は死者蘇生のバーゲンセールという理不尽の極みを前に無力感を抱く一方、生と死の意味、有限の人生を走る意義といったことを否応なしに考えていく。

 

避け得ない死は、絶対的なものなのか?無為に虚無の日々を浪費する我々こそ、生ける屍ではないのか?こうした問いが、グリンと読者の前に正面から立ちはだかってくる。

 

メメント・モリ」=「死を想え」。しかし死を想うことは同時に、生を想うことでもある。これは単なる言葉遊びではなく、本作最大のテーマであり、このパニックムービー調ミステリの終着駅である。怪奇現象に翻弄されるキャラクターたちと同様に、読者もまた爆笑しながらも死を想い、生を想うことになるのだ。

 

グレイトフル・デッド=偉大なる死とは何か?そんなものは幻想に過ぎず、意思を失くした土葬されれば地中で腐敗し、火葬されれば灰になるだけか?それとも、有限の道を懸命に生きることで、意義ある死に近づけるのか?

 

死にゆくものが遺せるのは物理的な財貨だけなのか?血族の永続繁栄こそが死を支配するものなのか?それとも、生き様を示すことがすなわち遺志となり得るのだろうか?

 

無限に湧き出す問いは尽きない。きっと、長い物語を完走したとき、読者の眼前には一人一人で全く異なる疑問が、信念が現れてくるだろう。どうしたことか!我々は爆笑B級ホラー風ミステリを読んで手を叩いていたはずなのに!そうはならんやろ!バカか!でもなるほどなー……と騒いでいただけなのに!しかし読後に残るのは、物寂しくも爽やかな余韻と、死生を巡る蠱惑的な議論への誘いである。

 

もう、これを傑作と言わずして何と言おうか。本作の素晴らしさは、はっきり言ってミステリ的な回収の巧拙、整合とは別次元である。ポップコーンにコーラが似合いそうなノリノリの作風と、その中に潜む真摯で哲学的なメッセージ。それを両立させているものは、作者自身の面白いものを書こう、伝えたいものを伝えよう、というストレートな意思と熱い想念に他ならないだろう。

 

薄ら寒い霊園でのリビングデッド・ダンスは、それに似つかわしくないほど情熱的な旋律によって、我々に死ぬことと生きることを今一度考えさせてくれるのだ。

 

ただし、メチャクチャに面白く!