灰色の殴り書き

昔の言葉で言うならチラシの裏です

普通と異常と(ゴールデンカムイ大好き論)

フォロワーのnoteに触発されて。コミックス派なので滅多にツイートはしないんだけど、好きです、ゴールデンカムイ

 

読者にとってはもはや周知の事実だが、本作には極端なキャラクターやぶっ飛んだ犯罪者ばかりが出てくる。

 

網走から野に放たれた囚人たちは言わずもがな。杉元も、第七師団も、キロランケやインカラマッも、あるいはアシリパさんさえもそういう側面を持っている。メインキャラの大人で思い浮かぶ例外は門倉とキラウシくらいだろうか。

 

しかし、それは彼岸の向こう側にいる異常者、我々と隔絶された世界の住人ではない、というのが本記事の主旨だ。戯画化された変態は数多く出てくるが、彼らでさえももしかしたら、我々「普通に暮らしている人間」と紙一重の隣人、あるいは延長線上にある生物かもしれない。

 

たとえば囚人たちは、概ねみんなが依存症に近い性質を持っている。相対的にまともに見えるキャラクターやレギュラー陣でさえもそうだ。土方は走り、戦い、死に場所を求めることに依存し続けている。白石は脱獄=逃走行為に依存しているとも言える。自分の大好きな勃起の二瓶は、狩猟行為なくして生きてはいけない人間だ。チンポ先生は……今でこそ大変頼りになるが、出てきた当初は異常性欲者だった。岩息舞治は殴り合い依存症。終盤に出てくる海賊房太郎も、己の夢=王国を作るという目標、あるいは自分の存在を忘れず語り継いでくれる者を探すことに依存して生きていたのではないかと思う。

 

第七師団や杉元、それにキロランケらについては、必ずしも依存症という言葉が適切かは分からないが、皆戦争や周囲との軋轢によって心の傷、言い換えれば満たされることのない虚無を抱えている。(宇佐美のような「生まれながら」も混じってはいるが) 杉元は生きる道を金塊探しに求めたし、第七師団は月島を筆頭に鶴見教に縋り殉ずる覚悟を持っていた。尾形は特に複雑なキャラクターのためここでは短くまとめられないが、少なくとも彼がノーマルな人間でないことは読者の皆が納得するだろう。

 

その中には谷垣のように、決定的な出会いによって変わり、虚無から生者の道へと這い上がる者もいる。インカラマッも、あるいは家長カノもその光を受けて変わっていった。また月島のように、虚無を忘れさせてくれる存在への疑問を持つ者も出てくる。

 

ここでアシリパさんを異常者と言ってしまうのは、最も批判されうる点だろう。物語中盤まで、彼女はアイヌでありながら新しい考え方の女性として、また杉元の相棒でありながら血腥い殺し合いの穢れに触れない聖女として、「普通」の倫理観の貴重さを強調するように描かれていた。しかし彼女も、愛(とあえて呼ぶ)と引力により、次第に自分の意思で戦いの深淵へ踏み込んでいく。少なくともそれは、あの時代の「普通の女性」のあり方として想定されるものではないだろうと思う。

 

そして、彼らが対峙し翻弄される自然の脅威もまた、極端で異常だ。巨大生物。蝗害。猛吹雪。そこに「普通」「いつも通り」への配慮など一切ない。自然はどこまでも荒ぶる表情を見せ、その前では人間の普通・異常という物差しも何の意味も持たない。

 

ただし、人間にとって異常に思える自然の猛威もまた、俯瞰して見ればサイクルの中での当然必然の営みの一部であり、決して修復すべき異常事態ではない。これはシンプルに人間と自然のスケールの違いでもある。

 

また、ここで一つ、別の見方を持ち出したい。残されていた自然を本格的に開拓開発していく明治以降の時代には、それまでローカルに残されていた極端な自然の営みが、次々に地ならしされる。そして、インフラを引き、生活文化水準を「平均」に近づけ、横並びに整えていく。それは即ち、人間にとって「異常」に見える苛烈な領域までもを西洋的な征服思想で制圧し、他の地域と同じ「普通」の暮らしに統一しようとする行為ではないか。この作業においては、自然の激烈さと一体である豊かさ、風土に根付いた文化の唯一性は無視される。土地には道路を敷いて住居と工場が建てられ、画一的な経済活動の拡張がなされる。本記事で文明への批判や経済発展の否定をするつもりは毛頭ないが、当時の日本にとってこうした開発が繁栄のための至上命題だったこと、その影響が本編描写のように北海道にまで及んでいたことには、議論の余地はないだろう。

 

しかし、人間という生き物において、そして自然環境において、「異常」に思える存在や事象は、決して彼岸によりこちらの「普通」と分断されるものではない。それ=異常性は隣人が見せた別の表情であり、「普通」のすぐ横に、あるいは延長線上に浮上してくるものだ。そこに善悪の境界線は引かれていないし、セーフティゾーンもない。

 

だからこそ、異常で極端なキャラクターたちも、美味しい料理には揃って舌鼓を打つ。雄大なものを美しく感じる。心からの言葉が他者の心に響く。情熱を持つ姿、命をかける姿は、等しく尊さを持つ。決してパーソナリティが「異常」一色に固定されることはなく、悩み、揺れ動き、こだわり、如何様にも変化していく。そのあり方は、何ら「普通」の人間と変わりない。

 

これはもしかしたら、作者の意図とは違うかもしれない。生まれついて変わることのできない狂人は存在し、そうでないように変わろうキャラクターたちが尊いのだ、という意見もあるだろう。陳腐な多様性盲信論、月並みな相対化を稀代の怪作に持ち込む愚行と言われるかもしれない。だから、これはあくまで自分の元にあったアイディアと融合させた持論であり、決して作品の正しい読み方を押し付けるものではないことは、口うるさいと思われるだろうが補足しておく。

 

話を戻そう。自然も人間と同様だ。異常な事象は突然訪れる。しかし、巨大生物にもそれぞれの生命の営みがある。蝗害や吹雪は前触れもなくやってくる。けれども、それが永久に大地を不毛へ変えてしまうことはなく、その後にはいつも通りの豊かな恵みがまたやってくる。そうして自然のサイクルは常に変数を孕みながらも安定して回っていく。そのように作中で描かれている自然もまた、「普通」の暮らしのすぐ側にあるものであり、大きな観点に立てば「いつも通り」の出来事と少しの違いもない。

 

繰り返すが、人も自然も「普通」と「異常」の二元論で切り分けることはできないのだ。それはすぐ近くにある現実として、恐るべき脅威と共に豊かな多様性をもたらすものとして、厳然と存在している。それを統一・管理すべき不確定要素とみなすことは、現実を一方的な理想のもとに暴力をもって否定することに他ならない。

 

我々にはコントロールできないが、すぐ側にあって恵みと試練の双方を与えるもの。これこそが「カムイ」であり、それを不可逆に上書きすることは、決して進歩の名の下に全肯定される行いではない。このように、自分はこの物語の一側面を解釈している。

 

ぶっ飛んだ異常者は、普通の人のすぐ側にいる。恐ろしい異常生物や異常気象も、いつも通りの営みのすぐ先にある。我々の「普通」の足場はとても脆弱で、容易に振り回されて、ままならない。だからこそ、そのど真ん中でぶつかり合う異常なキャラクターたちは、イカレてるけど格好良くて、眩しくて、共感できて、愛おしいのだ。

 

姉畑支遁を除いて。